
オスマン帝国の歴史が大きく動いた瞬間、それが1920年のセーブル条約です。
第一次世界大戦の敗戦によって、かつて「三大陸にまたがる大帝国」と呼ばれたオスマンが、まさかの“ほぼ解体”されそうになるという衝撃の展開に。
セーブル条約の内容って、どこがどう変わったの?どれくらいひどかったの?
今回は、この“ほぼ死刑宣告”みたいな条約の中身を、できるだけわかりやすく解説していきます!
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セーブル条約は、第一次世界大戦のあとに連合国とオスマン帝国との間で結ばれた講和条約です。
でも、その中身は単なる「終戦の約束」じゃなくて、オスマン帝国をバラバラに解体する内容だったんです。
条約が調印されたのは1920年8月10日。フランスのセーブルという町で行われました。
オスマン帝国の代表として調印に参加したのは、イスタンブール政府(スルタン側)。
でも実はこのとき、アンカラではムスタファ・ケマル率いる「トルコ大国民議会」が反対運動を開始していたという、国内分裂状態だったんですね。
セーブル条約では、オスマン帝国の領土の大半を列強で分割・管理することが決定。
オスマン本国の領域も極端に狭くなり、経済・軍事の主権もほとんど剥奪されるという過酷な条件でした。
では、具体的にどんな内容が盛り込まれていたのか?わかりやすくポイントごとに見ていきましょう。
まずは一番衝撃だったのが領土の再分配です。かつて帝国の誇りだった広大な領地は、ほぼすべて外国の支配下に置かれました。
つまり、「トルコ人の土地」さえまともに残らないレベルだったんです。
領土だけじゃなく、内政的な主権もほぼゼロにされました。
要するに「もう一国家としては扱いません」って言われたも同然だったんですね。
こんな内容、オスマン国民が納得するはずもなく、アンカラ政府を中心とした抵抗運動=トルコ独立戦争が始まります。
スルタン政府がセーブル条約に調印した一方で、ムスタファ・ケマル(のちのアタテュルク)は「こんな不当な条約は認めない!」と独自政府をアンカラに樹立。
これがのちのトルコ共和国の原点になっていくわけです。
ケマル率いるトルコ国民軍は、ギリシャ軍などを撃退して勝利し、1923年のローザンヌ条約で正式に新国境が定められ、セーブル条約は事実上破棄されます。つまり、発効はしたけど実行されなかった“紙くず条約”になったんです。
セーブル条約は、オスマン帝国が第一次大戦で負けた結果、連合国によって「地図から消されかけた瞬間」でした。
でもそれがあまりにひどすぎたからこそ、トルコ人の間に「これでは終われない!」という強い意志が芽生え、アタテュルクによる独立戦争と共和国の誕生へとつながったんです。まさに「帝国の終わりと新しい国の始まり」を分けた歴史の分岐点でした。