
16世紀、オスマン帝国とヨーロッパ諸国の関係は「戦争だけ」じゃなかったんです。
特にフランスとは意外にも仲が良くて、オスマン帝国が“特別な通商特権”を与えるなんてことまでやっていました。
これが、いわゆるカピチュレーション(領事裁判権付き通商特権)の始まりです。
では、オスマン帝国はなぜフランスにそんな特別待遇を許したのか?その背景と内容を見ていきましょう!
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フランスに通商特権を与えたのは、1535年のこと。
当時のスルタンスレイマン1世と、フランス国王フランソワ1世との間で結ばれた条約がそのきっかけです。
フランスは当時、神聖ローマ帝国のカール5世と対立中。
一方、オスマン帝国もハプスブルク家(=カール5世)と戦っていたので、「だったら手を組もうよ」って話になったんです。
そこでフランスに対し、「うちの領内で商売していいよ、その代わり後ろからハプスブルクをけん制してね」という外交的なバーター取引が成立します。
フランスの商人たちがオスマン帝国内で活動しやすいように、通商の自由・領事の設置・裁判権の保障など、いろんな優遇措置が盛り込まれました。
つまり、この特権は「お互いに得する」という前提で結ばれていたんです。
オスマン帝国がフランスに与えたのは、単なる「貿易していいよ」って話だけじゃありません。
実際には、治外法権に近いほどの強力な権利が認められていました。
フランス人商人や旅人がオスマン領内で問題を起こしても、自国の領事が裁判を行うという“領事裁判権”が認められました。
つまり、現地の法律が適用されないという特権的扱いだったんですね。
フランスに与えられた通商特権は、単に「貿易を許す」だけでなく、非常に手厚い経済的優遇措置を含んでいました。 特に関税や営業活動の自由に関する内容は、オスマン帝国内の他の商人と比べても明らかに有利な条件だったんです。
こうした特典によって、フランス商人は安心して長期的に活動できる環境を手に入れました。
結果として、イスタンブールやアレッポなどの交易都市にフランス人商人が定着し、彼らが経済を回す重要な担い手になっていくわけです。
いま見ると「ちょっと譲りすぎじゃない?」と思うかもしれませんが、当時のオスマン帝国は超余裕のある強国だったんです。
フランス商人が来てくれれば、港はにぎわうし税収も増える。
交易ルートを整えて、国際都市としてのステータスを高めたかったオスマン側にも、大きなメリットがあったわけです。
カピチュレーションの特徴は、「これは我々(オスマン帝国)があえて与えた恩恵です」という姿勢。
つまり、相手が強くて仕方なく譲歩したわけじゃない。
あくまで上から目線で“商売させてあげてる”という形だったんですね。
最初は「ウィンウィン」だったこの制度、時代が進むとオスマン帝国にとって重荷になっていきます。
フランスに続いて、イギリス、オランダ、ロシア、オーストリア…と次々に同様の特権を要求され、オスマンは外圧を断れずにOKを出し続けることになります。
最終的には国内で外国人が好き勝手に活動する“半主権状態”に。
時代が下るにつれて、カピチュレーションのせいでオスマン帝国の経済的・法的主権は深刻に揺らいでいきます。 特に外国商人や外交官に特権が与えられすぎて、国内の商人や司法制度は完全に“蚊帳の外”という状態になっていきました。
このような状況が続くことで、オスマン帝国は自国内で自由に経済政策や法の運用ができない半植民地的な構造に追い込まれていきます。
つまり、もともとは外交戦略の一環だった制度が、最終的には国家の足かせになってしまったというわけなんです。
オスマン帝国がフランスに与えた通商特権は、もともと外交と経済の両面でメリットを得るための“戦略的パートナーシップ”でした。
でもその後、同じような特権を列強に広げてしまったことで、帝国の経済と主権がじわじわと侵食されていくことになります。
だからこそこの制度、始まりは華やかでも、終わりはとても重たいテーマを残したんですね。