
ベオグラードは、セルビアの首都ですが、ドナウ川とサヴァ川が交わる地点に位置することもあり、歴史的に様々な勢力の進出が繰り返されました。中でもオスマン帝国は本当にしつこいくらい、ベオグラードを何度も狙い続けていたんです。
この記事では、なぜオスマン帝国がこの都市にこだわり続けたのか、その背景と意味をじっくり整理してみましょう。
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ベオグラードは、現在のセルビアの首都。今でこそ一国の都市だけど、中世〜近世にかけてはバルカン半島の“鍵”とも呼ばれるほど、戦略的に超重要な場所でした。
オスマン帝国にとっては、ヨーロッパ方面に攻め込むための“玄関口”とも言える存在で、ここを押さえるかどうかで北方への勢力拡大が左右されるような立ち位置だったんです。
ベオグラードの一番のポイントは、ドナウ川×サヴァ川という2つの大河が交差する地点にあること。
この場所は昔から、軍隊の移動・補給に便利なうえに、水運を押さえることで経済的にも強い影響力を持てたんです。
ベオグラードを超えると、すぐそこにはハンガリー平原。
つまりここを突破できれば、オスマン帝国は中央ヨーロッパに一気に攻め込めるんです。
逆に言えば、ここが抑えられてる限り、それ以上は進めない“壁”のような存在だったんですね。
「よし、ベオグラード取っちゃおう!」と最初に本格的に動いたのが、あのメフメト2世(征服王)。
彼は1453年にコンスタンティノープルを落としたことで有名だけど、その勢いのまま西方への拡大も狙っていたんです。
メフメト2世は1456年にベオグラードを包囲したものの、ハンガリーの英雄ジャン・フニャディに撃退されてしまいました。
このときの戦いはけっこう激しくて、実際にオスマン軍もかなりの損害を受けています。
普通はここまで大敗したら、しばらくは他の地域に目を向けるところなんですが、オスマン帝国はベオグラードの価値を信じ続けていたんです。
そして、70年後には再チャレンジの時がやってきます。
再チャレンジしたのは、オスマン帝国の“黄金時代”を築いたスレイマン1世(大帝)。
即位したばかりの彼は、「まずはベオグラードだ!」と意気込んで、かなり早い段階で攻撃を決断します。
このときのハンガリーは内政もゴタゴタしてて、前回みたいに強力な指導者もいませんでした。
その結果、1521年の包囲戦ではオスマン帝国が圧勝。ようやく悲願のベオグラード攻略に成功します。
このベオグラード攻略のあと、スレイマン1世は次々とヨーロッパに攻め込み、1526年のモハーチの戦いでハンガリー軍を撃破。
つまり、ベオグラードはヨーロッパ進出の“スタートボタン”みたいな存在だったんですね。
オスマン帝国がベオグラードを取って終わり…ではありませんでした。
その後、オーストリア(ハプスブルク家)との間で何度もこの都市が取り合いの舞台になります。
大トルコ戦争の最中、神聖ローマ帝国軍がベオグラードを占領。
でもその後オスマンがまた奪い返して…と、もうお互いに“執念”で戦ってる感じすらありました。
1739年のベオグラード条約で、オスマン帝国は正式にこの都市をオーストリアに明け渡します。
つまり、200年近くにわたって争い続けてきた“ベオグラード争奪戦”は、ここで一応の終止符を迎えることになるんです。
オスマン帝国がベオグラードにしつこく執着したのは、そこが単なる一都市じゃなく、戦略的な“ヨーロッパの扉”だったからなんです。
勝てば広がる、負ければ閉ざされる――そんな要の場所だったからこそ、何度失敗しても諦めなかったんですね。
まさに、戦略と執念がぶつかり合った熱い場所。それがベオグラードだったんです。