オスマン帝国が滅ぼした国々

オスマン帝国が滅ぼした国々

このページではオスマン帝国が征服し、滅ぼした諸国についてお話しています。東ローマ帝国やマムルーク朝、セルビア王国など、帝国の拡大により消滅した国家の背景や征服の過程を通して、オスマン帝国の勢力拡大と地域再編への理解を深める助けになれば幸いです。

オスマン帝国が滅ぼした国々

コンスタンティノープル攻囲戦の中世写本挿絵
オスマン帝国がコンスタンティノープルを滅ぼし、東方への陸路を塞いだことは、ヨーロッパの文化や価値観の転換を後押しし、ルネサンス文化の終焉に少なからず影響を与えた

出典:Philippe de Mazerolles et al. / Wikimedia Commons Public domainより

 

オスマン帝国って、600年以上も続いた大帝国なのに、最初から巨大だったわけじゃないんです。もともとは13世紀末のアナトリア西部にいた、小さなトルコ系侯国のひとつ。それがどうして、バルカン半島からアラビア、北アフリカまでを支配する「超巨大帝国」に成長できたのか? その鍵はまさに「征服」にありました。

 

とくに目立つのが、当時のヨーロッパ・中東にあった「古い国家」たちを次々と倒していったそのパワー。キリスト教国からイスラーム諸国まで、さまざまなライバルがオスマンの前にひざまずいたんです。

 

この記事では、そんなオスマン帝国が滅ぼした代表的な国々を、地域別に整理して紹介していきます。どういう経緯で征服され、どんな影響があったのか――その歴史の流れを、わかりやすくかみ砕いて解説します。

 

 

 

バルカン半島

オスマン帝国は、まず「ヨーロッパ側」からその勢力を広げていきました。バルカン半島には多くのキリスト教国家が存在しており、ここが最初の拡張戦線だったのです。

 

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、古代ローマ帝国の正統な継承国家。首都コンスタンティノープルはキリスト教世界の中心とも言える都市でした。しかし、1453年、メフメト2世の軍勢によってこの大都市が陥落し、千年以上続いた帝国は終焉を迎えます。これはヨーロッパ中に衝撃を与えた大事件で、以後オスマン帝国は「新たな大帝国」として国際的に認識されるようになります。

 

セルビア王国(中世セルビア)

14世紀にバルカンで勢力を誇ったセルビア王国。最盛期には皇帝を称し、周辺を従えていました。しかし、1389年のコソボの戦いでオスマン軍と激突。結果は決着がつかない戦いだったとも言われますが、その後、セルビアは着々とオスマンに吸収され、15世紀後半には完全に併合されます。

 

ブルガリア第二帝国

ブルガリアもまた、かつてバルカン半島で強い王国を築いていた国のひとつ。14世紀後半にはオスマン帝国の圧力を受けて東西に分裂状態となり、1396年には最終的に完全征服されました。以後、19世紀の独立運動までオスマンの支配下に置かれることになります。

 

ハンガリー王国(中世ハンガリー)

1526年、モハーチの戦いでハンガリー軍が壊滅すると、ハンガリーは事実上崩壊。その後、西部はハプスブルク家に、東部はトランシルヴァニア公国として分裂し、中央部はオスマン帝国の領土となります。中世の独立したハンガリー王国は、ここでいったん終焉を迎えたわけです。

 

 

アナトリア(小アジア)

アナトリア半島は、もともとセルジューク朝の崩壊後、多数のトルコ系侯国がひしめく群雄割拠状態でした。オスマン帝国の初期は、これらの統合が大きなテーマだったんです。

 

カラマン侯国(トルコ系アナトリア諸侯)

アナトリア中央部を支配していた有力な侯国で、オスマン帝国にとって最大のライバルのひとつでした。15世紀中盤にたびたび戦争が起き、最終的にメフメト2世の時代に完全征服されます。

 

ドゥルカディル侯国(ヒッタイト地方)

アナトリア南東部、現在のカフラマンマラシュ周辺を支配していた侯国。オスマンとマムルークの緩衝地帯として存在していましたが、16世紀初頭にオスマンに併合されます。この地域の統一は、マムルーク朝との決戦にもつながっていきました。

 

トレビゾンド帝国(東ローマ系小国家)

ビザンツ帝国の一族が逃れて建てた、黒海沿岸の小さな帝国。文化的には東ローマの伝統を色濃く残していました。1461年、メフメト2世によって征服され、ビザンツ系国家は完全に地図から姿を消すことになります。

 

中東・中央アジア

オスマン帝国の覇権がヨーロッパだけでなく中東や中央アジアにまで及んでいたこと、意外と知られていないかもしれません。とくに16世紀は、イラン・中央アジア・アラビア方面へも野心を広げていきました。

 

マムルーク朝(エジプト・シリア)

かつて十字軍を撃退し、モンゴル軍にも勝ったことで知られる強国マムルーク朝。しかし1516~1517年の戦役で、セリム1世率いるオスマン軍に敗北。エジプトとシリアの広大な地域が一気にオスマンの支配下に入ります。これにより、オスマン帝国はイスラム世界の中心としての地位も手に入れました。

 

ナクシュバンディー・シャイバーニー朝(中央アジア方面)

ウズベク人を中心としたイスラム王朝で、シャイバーン家が支配。オスマンとサファヴィー朝の間で板挟みになり、次第に衰退していきました。直接的に滅ぼされたわけではないですが、オスマン帝国との対立や外交で勢力が削がれ、16世紀には事実上消滅しています。

 

その他:小国家・侯国・都市国家など

オスマン帝国は「大国」を倒しただけではありません。小さな侯国や都市国家も、戦争や条約、政略結婚などを通じて次々と吸収していきました。ナポリやヴェネツィアのような海洋都市とも何度も争い、時には一時的に支配した地域もあるのです。

 

このように、オスマン帝国は大国から小国まで、さまざまな政体を次々と吸収していくことで巨大な版図を築きました。その軌跡には、「一国一国を飲み込んでいく怪物」のような迫力があるんです。