
ミドハト・パシャ(1870年代)
オスマン帝国初の憲法を導入したミドハト憲法制定に関わったが、その後停止され、議会政治は終焉へ向かった
出典:Ali Haydar Midhat / Wikimedia Commons Public domainより
1876年、オスマン帝国に近代国家への希望の光が差し込みます。 それが、帝国初の憲法であるミドハト憲法と議会の設置。 「これでオスマンも専制から脱却か!?」と期待されましたが、わずか2年でこの挑戦は“停止”されてしまうんです。 今回は、その憲法と議会がなぜ短命で終わったのか、政治的・社会的背景とともに見ていきましょう!
1876年12月23日、皇帝アブデュルハミト2世の名のもとで発布された、帝国初の近代憲法。 起草の中心となったのは、大改革派の官僚ミドハト・パシャです。
ミドハト憲法では、二院制議会(上院と下院)の設置が明記され、各民族・宗教から選ばれた代表が国の方針を議論することが可能になりました。
これによって、オスマン帝国は立憲君主制への一歩を踏み出したわけです。
とはいえ、スルタンの権限はかなり強く残っていて、
をスルタンが完全に握っていたんですね。 つまり「気に入らなければストップできる」制度設計だったとも言えます。
憲法発布からわずか2年後の1878年、スルタン・アブデュルハミト2世は憲法を“停止”し、議会も閉鎖。 その決定の背景には、いくつかの大きな理由がありました。
憲法が公布されたすぐ後の1877年〜1878年、オスマン帝国はロシア帝国と全面戦争に突入(露土戦争)。戦争はオスマンの完敗に終わり、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立や、バルカンの大半の喪失など、大打撃を受けました。
そしてアブデュルハミト2世は、「こんな大事な時に議会なんてやってる場合か!」と判断。「国家非常時」を口実に、憲法と議会を停止してしまうんです。
議会には帝国内のあらゆる民族・宗教・地域の代表が集まりましたが、そのぶん意見がバラバラで、国として統一した政策がまったく打ち出せない状況に。
このような“小言合戦”が続き、スルタン側からすれば「こんなんで国家運営できるか!」と見なされたわけです。
そもそもスルタン・アブデュルハミト2世自身が、立憲制に本気じゃなかったとも言われています。 ミドハト憲法も、ヨーロッパ列強に対して「ウチもちゃんと近代化してますよ〜」っていう外交アピールの側面が強かったんですね。
実際、憲法停止と同時にミドハト・パシャは国外追放。 以後30年間、帝国は完全な専制体制へと逆戻りします。
アブデュルハミト2世(Abdülhamid II, 1842–1918)
ミドハト・パシャの主導でミドハト憲法を発布したが、直後に議会を解散し憲法を停止、自らの専制支配を強化した
出典: Wikimedia Commons Public domain
長らく“封印”されていたミドハト憲法ですが、1908年の青年トルコ人革命でついに復活します。これが第2次立憲制の始まりです。では、この第2次立憲制はうまくいったのでしょうか?
議会はたしかに復活しました。ただし、そこに広がっていたのは期待されたような多様な政党が活発に議論する民主的空間ではなく、統一と進歩党(青年トルコ党)の一党支配でした。自由な選挙の実施は形だけのもので、反対派はたびたび排除され、政党政治の理想とはかけ離れていたのです。
この政権は当初、中央集権的な統治と国家統合を掲げていましたが、それがかえって多民族国家オスマン帝国の内部対立を激化させることにもつながっていきました。
青年トルコ革命・門前でのデモ(1909年)
アブデュルハミト2世の専制に反発した青年トルコ党が立憲制復活を求めて起こした政変
出典:Charles Roden Buxton / Wikimedia Commons Public domainより
1912年からのバルカン戦争では、帝国は多くの領土を失います。さらに1914年に始まる第一次世界大戦では、ドイツ側に立って参戦するという大きな決断をしますが、これも裏目に出てしまう。
戦争の長期化、経済の疲弊、食料不足、国民の不満──すべてが同時に押し寄せ、帝国の足元をじわじわと崩していったのです。この過程で議会の影響力も次第に低下し、政府と軍部の一体化が進んでいきます。もはや憲法や議会は形骸化し、政治は非常時体制へと移行していくのでした。
最終的に、1922年にはスルタン制が廃止され、1923年にトルコ共和国が建国されることで、オスマン帝国は歴史から姿を消します。ただ、ミドハト憲法の理念や立憲制の試みは完全に忘れ去られたわけではなく、その後のトルコの憲政史における「先駆け」として一定の評価を受けています。
また、立憲制の理念は共和国に引き継がれ、ムスタファ・ケマル・アタテュルクによる近代化・世俗化の改革の土台のひとつともなっていきました。こうして見てみると、たとえ短命であっても、ミドハト憲法とその再興は“近代トルコの始まり”を告げる象徴的な出来事だったとも言えるわけですね。
トルコ共和国の独立と領土を国際的に承認させたローザンヌ条約署名の様子(1923年)
出典:HubPages / Public domainより
ミドハト憲法と議会が停止された理由は、外からの戦争、内からの分裂、そしてスルタンの本音――すべてが重なってしまったから。
一見「近代化への第一歩」に見えた憲法制定は、実は非常に脆く、不安定な足場の上にあったんです。
でもこの短い立憲の試みが、後のトルコ共和国につながる“政治の種まき”になったのもまた事実なんですよ。