
1876年、オスマン帝国に近代国家への希望の光が差し込みます。
それが、帝国初の憲法であるミドハト憲法と議会の設置。
「これでオスマンも専制から脱却か!?」と期待されましたが、わずか2年でこの挑戦は“停止”されてしまうんです。
今回は、その憲法と議会がなぜ短命で終わったのか、政治的・社会的背景とともに見ていきましょう!
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1876年12月23日、スルタンアブデュルハミト2世の名のもとで発布された、帝国初の近代憲法。
起草の中心となったのは、大改革派の官僚ミドハト・パシャです。
ミドハト憲法では、二院制議会(上院と下院)の設置が明記され、各民族・宗教から選ばれた代表が国の方針を議論することが可能になりました。
これによって、オスマン帝国は立憲君主制への一歩を踏み出したわけです。
とはいえ、スルタンの権限はかなり強く残っていて、
をスルタンが完全に握っていたんですね。
つまり「気に入らなければストップできる」制度設計だったとも言えます。
憲法発布からわずか2年後の1878年、スルタン・アブデュルハミト2世は憲法を“停止”し、議会も閉鎖。
その決定の背景には、いくつかの大きな理由がありました。
憲法が公布されたすぐ後の1877年〜1878年、オスマン帝国はロシア帝国と全面戦争に突入。戦争はオスマンの完敗に終わり、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立や、バルカンの大半の喪失など、大打撃を受けました。
そしてアブデュルハミト2世は、「こんな大事な時に議会なんてやってる場合か!」と判断。「国家非常時」を口実に、憲法と議会を停止してしまうんです。
議会には帝国内のあらゆる民族・宗教・地域の代表が集まりましたが、そのぶん意見がバラバラで、国として統一した政策がまったく打ち出せない状況に。
このような“小言合戦”が続き、スルタン側からすれば「こんなんで国家運営できるか!」と見なされたわけです。
そもそもスルタン・アブデュルハミト2世自身が、立憲制に本気じゃなかったとも言われています。
ミドハト憲法も、ヨーロッパ列強に対して「ウチもちゃんと近代化してますよ〜」っていう外交アピールの側面が強かったんですね。
実際、憲法停止と同時にミドハト・パシャは国外追放。 以後30年間、帝国は完全な専制体制へと逆戻りします。
長らく“封印”されていたミドハト憲法ですが、1908年の青年トルコ人革命でついに復活します。これが第2次立憲制の始まりです。
議会は復活したものの、今度は統一と進歩党(青年トルコ党)の一党支配になり、本来の“議会制民主主義”とはまた違った形に。
そしてバルカン戦争や第一次世界大戦を経て、帝国自体が崩壊していくんです。
ミドハト憲法と議会が停止された理由は、外からの戦争、内からの分裂、そしてスルタンの本音――すべてが重なってしまったから。
一見「近代化への第一歩」に見えた憲法制定は、実は非常に脆く、不安定な足場の上にあったんです。
でもこの短い立憲の試みが、後のトルコ共和国につながる“政治の種まき”になったのもまた事実なんですよ。