
オスマン帝国とモンゴル帝国――名前はどちらも「帝国」だけど、時代も場所も少しズレていて、直接バチバチに戦ったわけじゃないんです。
でも、実はオスマン帝国の“誕生そのもの”にモンゴル帝国が大きく関係してるって知ってましたか?
つまり、「関係ないようで、めちゃくちゃ根っこでつながってた」っていう、歴史の面白い交差点なんです。
今回はこの2つの大帝国の間にあった、影響とつながりをわかりやすく見ていきましょう!
|
|
まず基本の確認ですが、モンゴル帝国(13世紀前半〜)の方が時代的に早く成立しています。
オスマン帝国が本格的に動き出すのは14世紀後半以降なので、時期としてはモンゴルの“あと”なんですね。
モンゴル帝国の征服活動によって、中央アジア〜中東のイスラーム勢力は大打撃を受けます。
その混乱の中で、アナトリア半島には逃げてきたトルコ系遊牧民があちこちに散らばることに。
この中にいたのが、オスマン帝国の創始者・オスマン1世の一族だったという説が有力なんです。
モンゴル帝国が西アジアで勢力を広げすぎたことで、地方のイスラーム政権がどんどん崩壊。
その中でアナトリアはある意味で“政治的な空白地帯”になり、小さな首長国(ベイリク)が乱立。
オスマン朝はそのベイリクのひとつから頭ひとつ抜け出して帝国化していくんです。
モンゴル帝国とオスマン帝国が唯一真正面からぶつかった場面があるとすれば、それはティムール朝との戦いです。
ティムール朝はモンゴル帝国の後継国家のひとつとされていて、強烈な軍事力で中央アジア〜ペルシャを制圧していました。
オスマン帝国第4代のバヤズィト1世は領土拡大を進めていましたが、これに危機感を覚えたティムールがアナトリアに遠征。
そしてアンカラの戦いで、オスマン軍は完敗。バヤズィト1世は捕らえられ、帝国は一時的に分裂状態に。
この敗北によって、オスマン帝国はほぼ崩壊寸前まで追い込まれます。
でも逆に言えば、この危機を乗り越えて再統一したことが、帝国としてのしぶとさ・再生力を世界に見せつけたターニングポイントでもあったんです。
軍事だけじゃなく、実はオスマン帝国の制度や政治文化にも、モンゴル的な要素が混ざっていたと考えられています。
初期オスマン帝国では、氏族中心のゆるやかな支配構造や、スルタンが“帝国の支配者”というより“部族連合の盟主”のように振る舞う場面もありました。
これはチンギス・ハン的な“カガン”のイメージとも似ていて、完全に偶然とは思えない部分です。
騎兵中心の機動力の高い軍隊や、ティマール制で土地と軍役をセットにする仕組みなどは、モンゴルや中央アジア系の遊牧国家の伝統を取り入れてアナトリア風にカスタマイズした結果とも言われています。
オスマン帝国とモンゴル帝国の関係は、直接の兄弟国家ではないけれど、モンゴルが作り出した“空白と混乱”の中から生まれたのがオスマン帝国という、歴史のつながりがあるんです。
そしてティムールとの激突や制度面の影響を通じて、見えないかたちでモンゴルの影が帝国に残っていたんですね。