
宗教改革の嵐渦巻くヨーロッパで「カトリック vs プロテスタント」がバチバチに火花を散らしていた時代、その“外側”からじっと様子をうかがいながら、ちゃっかり自分の得になるように立ち回ってたのが――そう、オスマン帝国です。
「イスラム国家なのに、キリスト教の内輪揉めに関わってたの!?」って思うかもしれませんが、実はオスマン帝国はこの宗教対立をしたたかに外交カードとして利用していたんです。
この記事では、「カトリックとプロテスタント、どっちに味方してたのか?」という素朴な疑問を入り口に、オスマンの外交センスとその背景をわかりやすくひもといていきます!
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16〜17世紀のヨーロッパでは、宗教改革をきっかけにカトリックとプロテスタントの大対立が勃発。
でも、オスマン帝国はイスラム国家だから、どっちにも関係ない…と思ったら、実はぜんぜん無関係じゃなかったんです。
オスマン帝国は自らキリスト教世界の一部ではなかったぶん、冷静かつ戦略的にヨーロッパ情勢を見ていました。
敵が分裂しているなら、そこにうまく入り込んで利を得る――まさに“漁夫の利”を狙っていたわけです。
よく誤解されがちなんですが、この時代の国際関係は宗教よりも国家の利益が優先されることが多かったんです。
なので、イスラムのオスマン帝国がキリスト教国と手を組むなんていうのも、普通にアリでした。
で、実際オスマン帝国はカトリックとプロテスタント、どっち寄りだったの?という話なんですが、結論から言うと――反ハプスブルクならウェルカム!でした。
オスマン帝国の最大のライバルは、神聖ローマ皇帝(カール5世など)を輩出したハプスブルク家。
彼らはガチガチのカトリック陣営だったので、オスマンは当然これに対抗する動きを取っていました。
特にハンガリーやオーストリアをめぐって、オスマンとハプスブルクは何度も戦争を繰り返しています。
そんな中、カール5世に反発するフランス(カトリックだけど反ハプスブルク)やドイツのプロテスタント諸侯と、オスマン帝国は意外な“外交の糸”でつながっていくんです。
たとえば…
宗教的にはまったく異なる立場でも、共通の敵に対しては“手を組む”のがリアルな国際関係だったんですね。
カトリック国のフランスと、イスラム国家のオスマン帝国が手を結ぶ――これ、当時のヨーロッパではかなりの衝撃でした。
1520年代、ハプスブルクに包囲されていたフランス王フランソワ1世は、オスマン帝国のスレイマン1世に支援を求め、両国は“事実上の同盟関係”に。これをきっかけにオスマンは西ヨーロッパと初めて正式に外交関係を結ぶようになります。
この提携によって、オスマン帝国はイスラム世界だけでなく、ヨーロッパ国際社会のプレイヤーとしても存在感を示すようになりました。
ただの異教徒じゃなくて、国際的に戦略を持つ大国として、宗教対立を外交ツールにしていったんです。
オスマン帝国は、カトリックでもプロテスタントでもないけれど、どちらとも“使えるときは使う”というしたたかさを持っていました。
宗教戦争の時代において、信仰よりも国益を優先する柔軟な外交センス――
まさにその動きが、帝国が長く生き延びた理由のひとつだったんですね。