オスマン帝国の行政区分|広大な領土を支配した統治システムとは

オスマン帝国は、最大版図で東はペルシャ湾、西はウィーンの手前まで支配する超広域国家
そんな巨大帝国を一枚岩で統治するなんて無理に決まってる…と思いきや、彼らはちゃんと効率的な行政区分を持っていたんです。
そのカギとなるのが、「州(エヤレット)」や「県(サンジャク)」といった分権的な地方統治システム
今回は、そんなオスマン帝国の行政区分について、スッキリ整理していきましょう!

 

 

基本の行政区分

オスマン帝国の地方統治は、中央集権と地方分権のバランスをうまく取った仕組みになっていました。 基本的には「大きな州 → それを分割した小さな県」という二段構えです。

 

エヤレット(州)

最上位の地方単位で、現代で言う「地方自治体のブロック」みたいな感じ。時代や領土の広がりによって数は変動したけど、多いときには30州以上ありました。

 

エヤレット(州)の例
  • ルメリ・エヤレット(バルカン半島)
  • アナトリア・エヤレット(小アジア)
  • シリア・エヤレット
  • エジプト・エヤレット など

 

サンジャク(県)

エヤレットを構成する小区分。サンジャクとは「軍旗」の意味で、もともとは軍団単位だったんですね。
一つのエヤレットには10〜30ほどのサンジャクが含まれていて、それぞれに長官(サンジャクベイ)が派遣されます。

 

カザ(郡)

イスラーム法に基づいた裁判管轄区域。カーディー(裁判官)が常駐していました。また裁判や教育といった分野でウラマー(宗教法学者)が深く関与。 地方行政とシャリーア(イスラーム法)が結びついていたのも、他の帝国とは違うポイントです。

 

ナーヒエ(村落)

複数の村をまとめた単位で、治安維持や灌漑管理などが行われていました。 最終的には村(キョイ)単位で民衆生活が営まれていたわけです。

 

統治者(役職)

じゃあ、こうした区分の現地ではどんな人がトップとして行政を担ってたのか?それも重要なポイントです。

 

ベイレルベイ(州総督)

エヤレットのトップに立つのがベイレルベイ(「ベイの中のベイ=大名的存在」)。軍の指揮官でもあり、徴税や治安維持などを担いました。
ときにはスルタンの代理として外交交渉や反乱鎮圧にも出動するくらい、影響力の大きい存在です。

 

サンジャクベイ(県長官)

サンジャク単位を管理する官僚で、ベイレルベイの指揮下にあります。
徴税、司法、軍事徴兵の取りまとめなど実務的な仕事が中心で、帝国の統治を下支えしていた人たちです。

 

時代が進むとどう変わった?

19世紀のタンズィマート(近代化改革)以降、行政区分も中央集権的で西洋風な制度に変わっていきます。

 

ヴィラーヤト制度への移行

1864年の改革で、エヤレットがヴィラーヤトと呼ばれる新たな行政単位に移行しています。以来、統治は官僚出身の知事(ヴァーリ)が担い、民政・教育・交通などの近代行政が強化されました。
これはフランスの県制度をモデルにしたとされていて、近代国家に向けた動きの一環だったんですね。

 

オスマン帝国の行政区分は、「エヤレット → サンジャク → カザ → ナーヒエ → 村」という階層構造で、軍事と行政、宗教と法をセットで動かす仕組みになっていました。
時代が進むにつれて西洋型の制度へと変化していきますが、巨大な多民族帝国をまとめあげる“統治の器”としての完成度は、かなり高かったんです。