
第25代スルタン《オスマン3世》とは何した人?
─世俗生活に不慣れなまま即位─
オスマン3世(Osman III, 1699–1757)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1754年~1757年 |
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出生 | 1699年1月2日 |
死去 | 1757年10月30日 |
異名 | 質素な宮廷のスルタン |
親 |
父:ムスタファ2世 |
兄弟 | マフムト1世 ほか |
子供 | 記録なし(生涯独身とも) |
功績 | 長年の幽閉生活ののち即位し、贅沢を嫌った質素な統治を行った。大宰相との協調を重視しつつも、短い治世で大きな成果は少なかった。 |
先代 | マフムト1世 |
次代 | ムスタファ3世 |
18世紀半ばのオスマン帝国は、なんとか平穏を保っていたとはいえ、外敵の脅威も、内政の歪みも、じわじわと積み重なっていた時代。そんな中で即位したのが、ほぼ一生を幽閉されて過ごした「予想外のスルタン」。その統治ぶりは、周囲を驚かせるものでした。
その人物こそがオスマン3世(1699 - 1757)!
この記事では、「カフェス育ちのスルタン」として知られるオスマン3世が、どんな治世を送り、帝国に何を残したのかを、わかりやすくかみ砕いて解説します。
オスマン3世の人生は、まさに「突然の即位」と「慎重すぎる統治」の連続でした。
オスマン3世はムスタファ2世の息子で、マフムト1世の弟。1699年生まれですが、兄がスルタンとなってからは51年間にわたって幽閉され、宮廷内の「カフェス」で静かに生きてきました。
1754年、兄マフムト1世の死によって突如即位。すでに55歳という高齢での“遅すぎるデビュー”でした。
即位後は、あらゆる改革や制度見直しに着手したものの、在位はわずか3年。1757年に病で急死します。享年58歳。統治の評価は賛否が分かれますが、少なくとも何もしなかったスルタンではなかったことは確かです。
オスマン3世の人柄には、幽閉生活が色濃く影を落としていました。
長年の孤独な生活が影響してか、オスマン3世は非常に警戒心が強く、しばしば冷酷ともいえる決断を下しました。宮廷の女官や宦官たちを大量に解任・追放したり、侍従たちとの接触を極端に制限したりと、かなり閉鎖的で統制的な政治スタイルだったのです。
その一方で、規律を正そうとする強い意志があり、「腐敗を嫌うスルタン」としても知られました。
オスマン3世には「女性を遠ざけたスルタン」という異色の逸話もあります。後宮制度(ハレム)をほとんど活用せず、女性との接触を極端に避けていたという説もあるんです。
この姿勢は、当時のスルタン像とは真逆で、「孤高の支配者」として強い印象を残しました。
在位は短かったものの、オスマン3世の統治にはいくつか特筆すべき改革の動きが見られます。
まず、彼が即位後すぐに行ったのが宮廷の浄化。とくに後宮や宦官の権限縮小を断行し、官僚主導の体制へと移行させようとしました。
また、地方の徴税官や軍司令官の任命にも慎重を期し、能力重視の登用を意識した布陣に切り替えます。これは在位期間を考えるとかなり野心的な取り組みでした。
短い治世にもかかわらず、オスマン3世はモスクや公共建築の整備に積極的で、都市整備や水道事業などにも関心を示しました。
また宗教的にもスーフィー教団への支援を行い、民衆との精神的なつながりを重視した点は見逃せません。
オスマン3世って、「孤独で警戒心の強いスルタン」だったけど、じつは中身はかなり“改革派”。人づきあいが苦手なだけで、国家のためには本気で動こうとしていたんですね。短命だったのが惜しまれる皇帝です。