
1878年のベルリン条約は、オスマン帝国にとって「領土を削られまくった」歴史的な大転換点。
ロシアとの戦争(露土戦争)に敗れたオスマン帝国は、列強に囲まれてバルカン半島の支配権を大幅に失うことになります。
このとき正式に“独立”を認められた国々がいくつかあって、それぞれがオスマンからの離脱を決定づけられた瞬間でもあったんです。以下で、その国々とそれぞれの背景をまとめて見ていきましょう!
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まずはざっくり背景を押さえておきましょう。1877〜78年に起きた露土戦争で、ロシアがオスマン帝国に圧勝。 その戦後処理として結ばれたのが、最初のサン・ステファノ条約だったんですが…
ということで、列強によって内容を見直したのがベルリン条約(1878年)なんです。
オスマン帝国は“当事者”なのに、決定権はほぼゼロ。むしろイギリスやオーストリア、ロシア、ドイツといった列強たちの「勢力バランス調整」の場として利用されたようなものでした。
ここでは、ベルリン条約によって「完全な独立国家」として国際的に認められた国を紹介します。
さらに、ベルリン条約でオスマン帝国の支配から外れた地域もあります。形式的にはオスマン宗主権下に残るものの、列強の保護や占領下に置かれた=実質的な離脱という状態です。
ベルリン条約は、オスマン帝国にとって“バルカン支配の終わりの始まり”でした。特に非ムスリム系民族が一斉に離脱していったことで、
といった事態に繋がり、帝国の宗教的・民族的バランスが一気に崩れていくんです。
ベルリン条約(1878年)でオスマン帝国から独立が承認された国は、セルビア、ルーマニア、モンテネグロの3国。
さらに、ブルガリアとボスニア・ヘルツェゴヴィナも実質的にオスマン支配から外れていくことになります。
この条約は、オスマン帝国の領土喪失・国際的地位の低下・民族問題の悪化を一気に加速させた“決定打”だったんです。