
19世紀のオスマン帝国、国内はバラバラ、列強からはグイグイ圧力――このままだと本気でヤバい。
そんな危機感の中で始まったのが、タンジマート(恩恵改革)です。
この改革、ただの“近代化ごっこ”じゃなくて、帝国そのものの仕組みを根本から作り変えようとする大改革だったんですよ。
今回は、タンジマートの具体的な内容と、それがどうして“世俗化”=宗教と政治の分離を加速させたのかを、わかりやすく整理していきます!
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タンジマート(Tanzimat)は、アラビア語で「再編成・整理」の意味。
1839年のギュルハネ勅令を皮切りに始まった、国家の制度・社会・法体系を近代的に整えるための一連の改革を指します。
だいたい1839年〜1876年くらいまでの時代がタンジマート期と呼ばれます。
この崩壊寸前の状況を立て直すため、「みんな平等、みんな臣民」という近代国家スタイルに変えていこう!というのがタンジマートの核心でした。
タンジマートは、「これまでのイスラーム的社会秩序を、ヨーロッパ式の近代法と制度で置き換える」ことが柱。
実際には次のような大きな改革が行われました👇
つまり「ムスリムだから」「キリスト教徒だから」じゃなくて、“臣民として平等”な立場に立たせようとしたわけです。
これによって、特権階級や宗教団体の“抜け道”が少しずつ塞がれていきました。
この改革期、特に目立ったのが宗教の政治からの切り離し=世俗化。
じゃあなんでイスラーム国家のオスマン帝国が、わざわざそんな方向に進んだのか?理由は大きく3つあります。
オスマン帝国には、イスラーム教徒だけじゃなく、キリスト教徒(ギリシャ正教、アルメニア教会など)、ユダヤ教徒がたくさんいました。
これまでは宗教ごとに法と制度がバラバラ(ミッレト制)だったけど、それだと「国家」という一体感が生まれない。
だからこそ、宗教に依存しない“統一法”と“国家制度”が求められたんです。
特にイギリス・フランスなどの列強は、「オスマン帝国の非ムスリム差別はけしからん」と圧力をかけていました。
これに対応するには、宗教ベースの差別をなくして“国民”としての平等を整備せざるを得なかった。
19世紀ヨーロッパでは、国家=議会・憲法・共通法というモデルが主流。
イスラーム法をベースにした統治では、「後進国」と見なされて外交上不利になる場面も多く、国際的な信用を得るためにも“世俗化”は必要だったんです。
タンジマート(恩恵改革)は、単なる行政刷新ではなく、イスラーム帝国を“ヨーロッパ型の近代国家”へ変える挑戦でした。
その過程で宗教と政治・法を分ける「世俗化」が進み、全臣民の平等や法治国家の原則が導入されていきます。
でもその一方で、ムスリム・非ムスリム間の摩擦や伝統勢力の反発も深まっていく…まさに“改革の光と影”が交錯する時代だったんですね。