
19世紀のエジプトって、「独立してたの?」「植民地だったの?」って、ちょっと分かりにくい立場に見えますよね。
でも実はこの時期、エジプトは“オスマン帝国の保護国”という特別な立ち位置だったんです。
どうしてそうなったのか?そして“植民地”とは何が違ったのか?――今回はその背景と意味を、わかりやすく整理してみましょう!
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まず大前提として、エジプトは16世紀から正式にオスマン帝国の属州(エヤーレト)として組み込まれていました。
でも、それがずっとそのままだったわけではありません。
スルタン・セリム1世がマムルーク朝を打倒してエジプトを征服したことで、エジプトはオスマン帝国の南方支配の要として戦略的にも経済的にも重要な拠点になります。
とくにナイル川の穀物やメッカ巡礼ルートの確保が大きかったんです。
イスタンブールから距離があるうえに、もともとのマムルーク系エリートが地元の力を温存していたため、エジプトの政治運営は名目的にオスマン属州でも、実質は“半自立”状態で動いていたんですね。
1805年、エジプトにムハンマド・アリーという超やり手の指導者が現れます。
彼の登場が、エジプトとオスマンの関係を一気に揺るがすことになるんです。
ムハンマド・アリーはオスマン帝国から総督(ワーリー)に任命されながら、実際には軍隊も財政も独自に整備し、オスマンの命令なしに外交や戦争を行うようになります。
彼の治世下で、エジプトは近代化と軍事力強化を一気に進め、半ば“独立国家化”するんですね。
1831年にはムハンマド・アリーがついにオスマン帝国本体に反旗を翻し、シリアからアナトリアに進軍。スルタン軍を破って、帝国の中枢に迫る事態となります。
このとき、オスマン帝国はロシアやイギリスの介入でどうにか危機を回避。
その結果、エジプトの“独立しきれない自立”という、あいまいな状態が誕生したんです。
最終的に、ムハンマド・アリーの支配を合法化する形で1841年に勅令(フィルマン)が出されます。
この勅令が、エジプトの“保護国化”を制度として定めたものだったんです。
この勅令によって、ムハンマド・アリーとその子孫がエジプト総督位を世襲できるようになりました。
つまり、地方官なのに世襲制=半独立の王朝という不思議な立場です。
ただし、名目上はオスマン帝国の一部として残され、形式的にはスルタンの支配下という設定でした。
この保護国状態のエジプトは、独自に外国と条約を結んだり、軍を派遣したり、借金したりすることが可能でした。
つまり、植民地のように支配されていたわけではないけれど、完全な独立国でもなかったという立ち位置です。
この「保護国」と「植民地」の違い、ちょっとわかりにくいですが、ポイントは“誰が支配していたか”と“どこまで主権があったか”です。
イギリスがインドを、フランスがアルジェリアを支配したように、宗主国が官僚や軍を送って完全支配するのが植民地。
住民の声も政治的自由もなく、完全に宗主国の都合で運営されます。
エジプトの場合は、エジプト人の政権が存在し、統治も基本的に現地の手で行われていました。
オスマン帝国は“宗主国”として外交や王位の承認といった名目的関与をするだけ。
つまり、「表向きの主権は残してあるけど、完全な自由もない」という中間的ポジションだったんです。
エジプトがオスマン帝国の保護国となった理由は、ムハンマド・アリーによる“強すぎる地方支配”がきっかけでした。
帝国はそれを完全に潰すこともできず、かといって独立も許せず、妥協の産物として「保護国化」という形が出来上がったんです。
植民地とは違い、形式的な主権は残っていた――でも、それは本当に独立と言えたのか?というのが、この時代のエジプトのもどかしさなんですね。