
第22代スルタン《ムスタファ2世》とは何した人?
─カルロヴィッツ条約で領土を損失─
ムスタファ2世(Mustafa II, 1664–1703)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1695年~1703年 |
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出生 | 1664年6月6日 |
死去 | 1703年12月29日 |
異名 | 軍務に熱心なスルタン |
親 |
父:メフメト4世 |
兄弟 | アフメト3世、スレイマン、セルキュクなど(夭折含む) |
子供 | マフムト1世、オスマン3世 ほか |
功績 | 自ら陣頭に立ってハプスブルク軍と戦い、ルゴシュの戦いで勝利を収める。晩年は内政に失望し政務を放棄、1703年の反乱で退位に追い込まれた。 |
先代 | アフメト2世 |
次代 | アフメト3世 |
オスマン帝国の栄光が過去のものとなりつつあった17世紀末、皇帝の座に就いたのは、もう一度“栄光の復活”を目指そうとしたスルタンでした。戦場に自ら立ち、ヨーロッパ諸国との戦いに挑む姿は、まさにかつてのスレイマン大帝を思わせるもの。しかし、時代はすでに変わっていたのです。
その人物こそがムスタファ2世(1664 - 1703)!
この記事では、「最後の戦う皇帝」とも呼ばれるムスタファ2世の軍事的野心と、その挫折、そして退位に至るまでの劇的な転落を、わかりやすくかみ砕いて解説します。
ムスタファ2世の人生は、華やかな勝利への憧れと、厳しい現実とのギャップに満ちたものでした。
ムスタファ2世は、アフメト2世の甥にあたり、1695年に即位。当時オスマン帝国は、神聖同盟戦争の真っ只中にあり、皇帝は戦場に出ることが求められていたんです。
彼は自ら軍を率いて5回の遠征を実行。とくに1697年には、かのスランカメンの戦いでハプスブルク軍と激突しますが、ここで大敗を喫し、帝国の軍事的挽回は失敗に終わってしまいます。
その後も統治を続けていたムスタファ2世ですが、1703年、イェニチェリ軍の反乱──いわゆるエディルネ事件によって、ついに退位させられます。
そのまま幽閉され、1703年暮れに死亡。享年39歳、スルタンでありながら最後は静かな幕引きとなりました。
ムスタファ2世は、実直で信仰心も強く、同時に“軍人皇帝”としての自負に満ちた人物でした。
彼は、祖先スレイマン1世のように「皇帝自ら戦場に立ち、軍を率いてこそ真のスルタンだ」という理想を抱いていたようです。そのため、戦争への意欲は非常に高く、実際に自ら出陣するなど勇敢な行動もとっています。
ただし、戦局の厳しさと軍内部の腐敗に直面し、その理想が次第に挫折していく過程は、本人にとっても苦しかったはず。
一方で、ムスタファ2世は詩や書道に造詣が深く、宮廷文化を大切にした側面もあります。自らも詩作をおこない、文化人との交流も好んだとか。
つまり、「武」と「文」の両面を重んじるバランス型の皇帝だったともいえるわけです。
軍事的な勝利こそ乏しかったものの、ムスタファ2世の治世にはいくつか重要な転換点がありました。
戦局が悪化するなかで、1699年に結ばれたのがカルロヴィッツ条約。これにより、オスマン帝国は大規模な領土割譲──ハンガリーやトランシルヴァニアの放棄──を余儀なくされ、バルカン支配の終焉が現実のものとなります。
これは帝国の“防衛から撤退へ”という時代の転換点であり、ムスタファ2世の治世はその象徴ともなったのです。
カルロヴィッツ条約の締結場面(1699年)
ムスタファ2世の治世に結ばれたカルロヴィッツ条約は、オスマン帝国がヨーロッパにおける領土を大幅に失った屈辱の講和条約
出典:Unknown German artist from the Low Countries / Wikimedia commons Public Domain
彼はイェニチェリ軍の腐敗を危惧し、新たな軍制改革を進めようと試みていました。戦闘経験を持たない兵士の排除、秩序の再編などを計画したものの、宮廷の抵抗や反発によって実現には至りませんでした。
とはいえ、その発想はのちの改革派スルタンたちに引き継がれていくことになります。
ムスタファ2世って、まじめで理想に燃える“武人スルタン”だったんですよね。でも時代の流れが彼に追いついていなかった。改革の先を見ていたけど、それを形にするにはあまりにも早すぎた皇帝だったのです。