
一方はオスマン帝国、もう一方は日本――場所も文化もまったく違うように見えるこのふたつの国ですが、 じつは19世紀という同じ時代に、驚くほど似たような改革を進めていたんです。
その名も、オスマン帝国のタンジマート(恩恵改革)と、日本の明治維新。
どちらも西洋列強の圧力を受けて始まった「国の大改造計画」で、伝統と近代化のはざまで必死にもがく国の姿が見えてくるんですよ。
この記事では、このふたつの改革の背景・内容・結果を比べながら、その共通点と相違点をわかりやすく整理してみましょう!
|
|
まずはそれぞれの改革が、どういう状況で始まったのかを見てみましょう。 実はスタート地点も、けっこう似ているんです。
タンジマートは1839年から1876年まで、オスマン帝国で進められた一連の近代化改革です。
「帝国の病人」と揶揄されるほど弱体化していたオスマン帝国が、ヨーロッパ列強の圧力を受けて、法制度・軍制・教育・税制などを西洋風に改革していったものです。
明治維新は1868年、江戸幕府が崩壊した後にスタートした、日本の国家改革です。
こちらもペリー来航など欧米列強の開国圧力がきっかけとなり、中央集権・徴兵制・学校制度・産業化などを急ピッチで導入していきました。
どちらも外からのプレッシャーが発火点となって、本格的な近代化を始めたという点でそっくりなんです。
じゃあ具体的に、タンジマートと明治維新ってどこが似ていて、どこが違ったんでしょうか?
それぞれの改革の柱を比べてみると、意外な共通点がたくさん見えてきます。
両方とも、ざっくり言えば「欧米に追いつく!」という目的がありました。
だから内容もこんな感じでよく似てます。
オスマン帝国も日本も、まさに「伝統 vs 近代」の狭間でもがきながら、それでも前に進もうとしていたわけですね。
結果から見れば、日本の明治維新はわずか数十年で近代国家化に成功し、列強の仲間入りを果たします。
一方、オスマン帝国のタンジマートは、改革は進んだものの帝国の統治構造が限界に達していて、宗教・民族・領土の複雑さに押しつぶされる形で、のちに崩壊してしまいます。
だから「改革の方向性は一緒だけど、成果はまるで違った」ってところがポイントです。
ここがいちばん気になるところですよね。同じように外圧で始まった改革なのに、なんで日本だけうまくいったのか――
その理由には、いくつかの大きな違いがあるんです。
日本はある意味「ほぼ単一民族の島国」で、内部に大きな宗教や民族の対立がありませんでした。
でもオスマン帝国はアラブ人、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人など、いろんな人々が暮らす多民族国家。
だから近代化すればするほど、「それぞれのアイデンティティ」が目を覚ましてしまって、帝国をひとつにまとめるのが難しかったんです。
日本は明治維新後、列強とある程度の平和的交渉を続けながら近代化を進められました。
でもオスマン帝国はタンジマートの間もずっと、戦争や列強の干渉が続いていて、安定して改革に集中するのが難しかったんです。
日本は「天皇を中心にまとまろう!」というシンプルで強力な国家理念を打ち出しました。
でもオスマン帝国では、「イスラムの国」から「すべての国民に平等な法を」へと舵を切るのが難しく、国民国家としての方向性がブレたんです。
タンジマートと明治維新――国も文化も違うけれど、「危機の時代に、国を立て直すために何をしたか」という視点で見ると、たくさんの共通点があります。
でもその先の運命は、まったく違うものになりました。
その差こそが、歴史の面白さなんですよね。