メフメト2世は何した人?─コンスタンティノープルを陥落させた征服王

メフメト2世は何した人?

オスマン皇帝紹介・第7代スルタン《メフメト2世》編です。「征服王(ファーティフ)」の異名をもち、1453年にビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させた歴史的英雄。東西の文化を融合させながら中央集権体制を築き、帝国を真の大国へと押し上げました。その生涯や死因、性格や逸話、功績や影響を探って行きましょう。

第7代スルタン《メフメト2世》とは何した人?
─コンスタンティノープルを陥落させた征服王─

メフメト2世(Mehmed II, 1432–1481)
出典: Wikimedia Commons Public domain

 

メフメト2世の基本情報
在位 1444年~1446年、1451年~1481年
出生 1432年3月30日
死去 1481年5月3日
異名 ファーティフ(征服王)

父:ムラト2世
母:フマー・ハトゥン

兄弟 アラエッディン ほか(夭折・早世者多数)
子供 バヤズィト2世、ジェム・スルタン ほか
功績 1453年にコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼす。東ローマの継承者として自認し、オスマン帝国を世界帝国へと押し上げた。
先代 ムラト2世
次代 バヤズィト2世

 

オスマン帝国の歴史を語るうえで、絶対に外せない人物がいます。
それがメフメト2世(在位1444-1446/1451-1481)──そう、あの「征服王(ファーティフ)」

 

ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを1453年に陥落させたことで、世界史にその名を刻んだ大英雄ですね。でも実は、彼のすごさは“城を落とした”っていう派手さだけじゃないんです。
国家制度、法整備、宗教政策──ぜんぶ見直して、帝国のカタチそのものをアップデートしていった「中興の祖」でもあるんですよ。

 

 

 

生涯と死因

若くして即位し、最初は失敗もしたけれど、そこから一気に世界を変える男へと成長していったのがメフメト2世でした。

 

2度の即位と覚醒

最初の即位は1444年、まだわずか12歳。でも幼すぎたため父ムラト2世がすぐに復帰し、彼はいったん退位。
本格的にスルタンとして動き出すのは、1451年──19歳のときです。

 

ここからメフメトは一気に豹変。人も制度もガラッと入れ替え、“征服モード”全開のスルタンに生まれ変わります。

 

晩年の遠征と死

在位30年の間に数々の戦を制し、帝国の領土を大幅に拡張。その晩年も、遠征先で軍を率いていた最中に急病にかかり、1481年に死亡。

 

死因には毒殺説もあるけれど、有力なのは病死説。
とはいえ、「戦いの途中で亡くなった」という事実だけでも、彼が最後まで“攻めのスルタン”だったことが伝わってきますよね。

 

性格と逸話

メフメト2世は、知性と苛烈さをあわせ持つ、“冷静な征服者”でした。

 

ギリシャ語とラテン語を操る教養人

彼は若いころから古代ギリシャ哲学やローマ史に夢中で、なんとギリシャ語やラテン語も話せたといわれています。

 

プラトンを読み、アリストテレスに心酔し、軍事だけでなく“文明の継承者”としての自負も強かった──だからこそ「コンスタンティノープルを落とす」というのは、単なる征服じゃなく“歴史の更新”でもあったんですね。

 

コンスタンティノープル入城の演出

1453年5月29日、ついにあの都市を落とした日、彼は聖ソフィア大聖堂に入ってイスラムの礼拝を行い、「この都市の支配者は私だ」と宣言します。

 

でもその前に、街の人々に掠奪禁止を命じ、逃げ遅れた市民に慈悲を与えるなど、演出にもぬかりなし。
ただの戦好きじゃない、“見せ方”まで計算づくの支配者だったんです。

 

ゲンナディオス2世を総主教に任命するメフメト2世(15世紀)
コンスタンティノープルを征服後も、納税や一定の制限を条件に正教会の信仰を認めた

出典:Workshop of Gentile Bellini / Wikimedia Commons Public Domain

 

 

功績と影響

彼の時代、オスマン帝国は単なる「軍事国家」から本物の帝国へと進化します。

 

コンスタンティノープル陥落と新首都建設

やっぱり何と言っても1453年のコンスタンティノープル攻略が最大の功績。
これにより、東ローマ帝国は完全に滅亡。そして、メフメトはそこを「イスタンブル」として新首都に据え、壮大な都市改造をスタートさせます。

 

教会をモスクに変え、街に水道や市壁を整備し、各宗教・民族を住まわせて多文化共存の都市へと作り変えていったんです。

 

コンスタンティノープル陥落
メフメト2世が大砲を用いた総攻撃で東ローマ帝国を滅ぼし、首都を手中に収めた戦い

出典:Unknown author / Wikimedia Commons Public domainより

法と制度の改革

メフメト2世は「法律スルタン(カーヌーニー)」とも呼ばれました。
それまでは慣習やイスラム法に頼っていた部分を、皇帝独自の法典(カーヌーン)として明文化し、司法や財政制度を近代化。

 

さらに軍制度も再構築し、イェニチェリや騎士軍の編成を見直し、君主権を強化しました。
つまり、彼の時代に“スルタン=絶対的君主”という姿が確立されたんですね。

 

メフメト2世は「ただの強いスルタン」じゃありませんでした。戦って都市を落とすだけでなく、文化を育て、制度を整え、国を前に進める──まさに“征服王”という名に恥じない、トータルパッケージのリーダーだったんです!