オスマン帝国と中国の関係

オスマン帝国と中国――歴史の教科書ではあまり並んで登場しないかもしれませんが、実はこの2つの大国、遠く離れていたわりに“ゆるやかな接点”はちゃんとあったんです。
直接の戦争や同盟こそなかったものの、交易・宗教・外交のレベルでは意外とつながっていて、それぞれの“大帝国”として、お互いの存在をちゃんと意識していたんですね。
今回は、そんなオスマン帝国と中国(主に明・清)の関係を、時代ごとにわかりやすく整理してみましょう!

 

 

地理的に遠いけど、まったく無関係ではなかった

オスマン帝国(西アジア~東欧)と中国(東アジア)は、地図で見ると距離がかなりあります。
でもそのあいだには中央アジア・イスラーム圏・シルクロードがあって、人・モノ・情報がつながるルートが存在していたんです。

 

直接の外交関係は限定的だった

まず事実として、オスマンと中国が正式な大使を頻繁に送り合っていたような関係ではありませんでした。
特に明や清は「中華世界=世界の中心」という思想があったため、遠くのイスラーム帝国に対しても、“朝貢かどうか”が外交の判断基準だったんです。
一方のオスマン帝国も、スルタンがカリフを名乗る宗教的リーダーなので、これまた自らを“上”と見ていた節があり、つまりお互いに「俺こそ世界の中心」って思ってたから、対等な関係にはなりにくかったんですね。

 

ムスリム商人たちが“両者をつなぐ役割”を果たした

それでも、中央アジアの商人たちや、中国西部(雲南・新疆)にいたイスラーム教徒(回族など)
オスマン世界との交易や情報交流のパイプ役となっていました。
とくに絹・陶磁器・香辛料などの長距離貿易品は、間接的にオスマン市場にも流れていたんです。

 

宗教と文化では意外な接点も

両者をつなぐうえで、イスラーム教のネットワークが大きな役割を果たしました。
オスマン帝国のカリフは「全イスラーム世界の守護者」を自任していたので、中国のムスリム(回族)とも精神的なつながりがあったんです。

 

中国ムスリムが“スルタンに使節”を送ったことも

18世紀〜19世紀の記録では、中国のイスラーム指導者がオスマン帝国に手紙や使節を送った例もあります。
彼らは、自分たちが清朝の支配下で宗教的に制限されるなか、「イスラーム世界の盟主であるスルタンに助けを求める」という思いで連絡を取っていたんです。
ただし、オスマン側も距離が遠くて直接的な介入は難しく、象徴的な支援・文書の返答にとどまりました。

 

オスマン=イスラーム文化が中国に影響を与える側面も

中国西部(特に新疆ウイグル地域)では、オスマン風の建築様式や宗教施設の影響も一部に見られます。
また、宗教教育やモスク運営などで、オスマン式のマドラサ(神学校)モデルが取り入れられた例もあったと言われています。

 

19世紀後半には“列強の脅威”で共通点が増す

近代に入ると、オスマン帝国も清朝中国も、ヨーロッパ列強の圧力にさらされることになります。
この「列強の侵食」に対して、“非西欧帝国”としての共通の苦悩が見えはじめるんです。

 

どちらも“不平等条約”で苦しんだ

オスマン帝国はカピチュレーション(通商特権)債務管理制度によって経済主権を失い、清朝はアヘン戦争後の南京条約や北京条約で同じように列強の影響下に置かれました。
まさに「半植民地化される帝国」という点で、両者は似た道をたどっていたんですね。

 

改革も同時期に進んだ

オスマン帝国のタンジマート改革(19世紀中盤〜)と、清朝の洋務運動(1860年代〜)も、「西洋に追いつこうとする国家の近代化改革」という点で非常に似ていました。
それぞれ失敗や限界も抱えていましたが、「伝統を残しつつ、どうモダンに変われるか」という苦悩は共通だったんです。

 

オスマン帝国と中国の関係は、戦争も同盟もなかったけれど、シルクロードやイスラームという“間接ルート”を通じてつながっていました。
しかも近代になると、どちらも列強に苦しむ中で、“非西欧大国の苦悩”を共有する立場になっていったんです。
遠いようで意外と近かったこの関係、ちょっとロマンを感じますよね。