
メッカとメディナ――このふたつの都市は、イスラム教徒にとって世界で最も神聖な場所です。
預言者ムハンマドが誕生し、イスラムが始まった舞台であり、巡礼(ハッジ)の目的地として今も世界中のムスリムが集まります。
でも、この聖なる都市を誰が“政治的に”支配してきたのかって、意外と知られていないんですよね。
実はこの聖地、16世紀以降ずっとオスマン帝国の支配下にあったんです。
この記事では、オスマン帝国がメッカとメディナをどう位置づけ、どう関わってきたのか――その宗教的・政治的な意味を深掘りしていきます。
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イスラム教の聖地であるメッカとメディナは、当初からオスマン帝国の一部だったわけではありません。
このふたつが帝国の“宝”となったのは、16世紀、ある大きな戦いと征服をきっかけに実現しました。
スルタン・セリム1世がマムルーク朝を滅ぼし、エジプトを征服したとき、メッカとメディナの宗主権もオスマンに移ります。
このとき、カリフの称号もセリム1世が受け継いだとされていて、ここからオスマン皇帝=イスラム世界の守護者という構図が強まっていくんです。
以後、オスマン皇帝は「ハーミン・アル・ハラマイン(Ḥāmīn al-Ḥaramayn)」=メッカとメディナを守る者という称号を名乗るようになります。
これは単なる名誉じゃなくて、イスラム共同体における政治的・宗教的正統性を示す超重要なアピールでもありました。
オスマン皇帝がメッカ・メディナを「持っている」といっても、そこに軍隊を置いて好き勝手したわけではありません。
むしろ彼らは“守り、整え、支える”ことに全力を注いだんです。
イスラム教の五行のひとつであるハッジ(巡礼)を、安全・安心に行える環境をつくることは、スルタンにとっての使命でした。
キャラバンルートの治安維持、水の供給、休憩所の整備などを徹底し、ムスリム世界全体への責任を果たそうとしたんです。
オスマン皇帝たちは、メッカやメディナのモスク修復や給水施設、学校、病院などさまざまな公共施設を寄進しました。
特にスルタン・スレイマン1世の時代には、カアバ(メッカの聖殿)周辺の大改修が行われています。
オスマン帝国がメッカ・メディナを治めたことで、彼らは単なる世俗の帝国ではなく、宗教的な指導者の顔も持つようになります。
ここが、オスマン帝国を「単なる大国」以上の存在に押し上げた大きな要因なんですね。
メッカとメディナを守るという行為は、そのまま「自分たちこそがイスラム共同体のリーダーだ」という正統性の根拠になります。
この地を支配することは、ムスリム世界全体へのメッセージだったんです。
イスタンブールが政治の首都、エディルネが軍事の要である一方で、メッカとメディナは“心の都”でした。
オスマン帝国にとって、これらの聖地は国家アイデンティティと信仰の中心でもあり、その扱いは特別だったんです。
オスマン帝国は、メッカとメディナをただの「征服地」としてではなく、守るべき神聖な空間として接していました。
その姿勢こそが、「信仰の守護者」としての地位をムスリム世界で確立する大きな鍵になったんです。
聖地支配は単なる政治じゃなくて、信仰と帝国の一体化を象徴する壮大なプロジェクトだったんですね。