
オスマン帝国とムガル帝国――どちらもイスラーム世界を代表する超巨大帝国だったんですが、「仲良し?」って聞かれるとちょっと複雑。実はこの2つ、地理的にはそこそこ離れてることもあって、直接ガチでぶつかるような戦争は起こってません。
でも、だからこそお互いを“意識しつつも微妙な距離感”で見ていた、そんな関係だったんです。
今回はこの2つの帝国の間にあった宗教的・政治的なつながりとすれ違い、そしてその外交の裏側をわかりやすく見ていきましょう!
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オスマンもムガルも、イスラームを掲げた多民族・多宗教の大帝国でした。
でも直接国境を接してたわけじゃないので、意外と接触は限定的。
それでも、お互いを無視できるような関係じゃなかったんです。
オスマン帝国とムガル帝国のあいだには、直接のつながりは少なかったんですが、両者ともある意味でティムール朝の影響下にあったんですね。
ムガルの祖アクバルはティムールの血を引いてるし、オスマンもアンカラの戦いでティムールに敗れた過去がある。
だからこそ、帝国としての“格式争い”みたいな空気はどこかにありました。
オスマン(トルコ系)・サファヴィー(ペルシャ系)・ムガル(中央アジア系)は、よく「三大イスラーム帝国」って言われるんですが、この3者の中でムガル帝国は比較的“外交的に内向き”でした。
オスマンとサファヴィーは宗派争いや国境紛争で何度も戦っていた一方で、ムガルはそれを少し遠くから眺めていた、って感じです。
宗派的にはオスマンもムガルもスンナ派なんですが、それで完全に一致団結……とはなりませんでした。
というのも、イスラーム世界のリーダーは誰か?という見えないプライドのぶつかり合いがあったんです。
16世紀以降、オスマン帝国のスルタンはイスラーム世界のカリフ(宗教的指導者)を兼任していました。
つまり「ムスリム全体の象徴的リーダー」というポジションを自認していたわけです。
ムガル皇帝も自国でスンナ派を保護しつつ、インド土着のヒンドゥー文化との融和を図ってたので、オスマンの「俺こそ正統」的なアプローチに距離を置いていたとも言われます。
実際、ムガル側はオスマンのカリフ制を完全に認めたわけではなかったとされているんです。
対立もなければ、がっつり連携もない――そんな関係性だったけど、一応の外交ルートは持っていました。
しかもそれは、海の向こう側からも。
特に16世紀のアクバル帝(在位1556〜1605)の時代には、ムガル側からイスタンブールへ使節が送られた記録もあります。
宗教的な連携というよりは、形式的な敬意や貿易ルート確保が目的だったと考えられています。
ムガル帝国のムスリムたちにとって、メッカ巡礼(ハッジ)は非常に大切。
そのためには紅海やアラビア半島を通るルートの安全が必要で、それを抑えていたのがオスマン帝国でした。
この面では宗教的な連携というより、現実的な協力関係が築かれていたわけです。
オスマン帝国とムガル帝国の関係は、戦争こそなかったけれど、宗教・外交・格式の面で“見えないライバル意識”が漂う独特なものでした。
お互いスンナ派でイスラーム世界を支えていたけど、宗主国の座を譲る気はなかった。
だからこそ、静かに牽制し合いながらも、ときには使節を通じてつながりを保ち続けていたんですね。