
第5代スルタン《メフメト1世》とは何した人?
─内乱を終結させ帝国を再統一した第二の建国者─
メフメト1世(Mehmed I, 1386–1421)
出典:Unknown author / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1413年~1421年 |
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出生 | 1389年頃 |
死去 | 1421年 |
異名 | 第二の建国者 |
親 |
父:バヤズィト1世 |
兄弟 | スレイマン・チャレビー、ムーサ・チャレビー、ムスタファ・チャレビー ほか |
子供 | ムラト2世 ほか |
功績 | アンカラの戦い後の帝国分裂(内乱時代)を終結させ、オスマン帝国を再統一。政治・軍制の立て直しを図り、帝国再興の基礎を築いた。 |
先代 | バヤズィト1世(内乱時代を経て) |
次代 | ムラト2世 |
バヤズィト1世の死後、オスマン帝国は一度バラバラになります。いわゆる「空位時代(1402〜1413)」と呼ばれる大混乱期。
兄弟たちが各地で帝位を争い、帝国は分裂寸前──というか、実際に分裂状態だったわけです。
そんなカオスを収拾し、もう一度「オスマン帝国」としてのカタチを取り戻した立役者こそがメフメト1世(在位1413-1421)。
戦い続きの毎日だったけれど、だからこそ“再建の父”と呼ばれるにふさわしい人物だったんですね。
兄弟同士の抗争に勝ち、帝国を復活させたメフメト1世。その人生は、まさに修復と統合の連続でした。
父バヤズィトがアンカラの戦いで敗北し、ティムールの捕虜となったあと、帝国は兄弟同士の王位争い(内戦)に突入します。
この争いは実に11年も続く長期戦。メフメトはその中で粘り強く各地の勢力を調整し、最終的に1413年に単独のスルタンとして即位することに成功しました。
この時点で帝国はボロボロ──経済も軍もガタガタ。それを立て直すのが、彼の最大の仕事だったんです。
在位中はほとんどの時間を再建に費やしつつ、1416年のジェラリー反乱など内乱にも対処。最終的には1421年、病によって静かに世を去ります。
オスマン皇帝で戦死でも暗殺でもなく、平穏に生涯を終えた数少ない人物のひとりなんですね。
争いの中で育っただけあって、メフメト1世の性格には“調整型”の要素が色濃くにじみ出ています。
メフメトはとにかく空気を読むのがうまかった。バルカンではハンガリーやセルビアとの関係を丁寧に管理し、アナトリアでは旧敵だった諸侯とも和平を結ぶなど、対立を避けながらじわじわと力を取り戻していくスタイル。
敵とガチンコ勝負するよりも、同盟や宥和を重視する“修復のプロ”というイメージですね。
宗教的には、当時人気を集めていたスーフィズム(イスラム神秘主義)のグループと良好な関係を築いたことでも知られます。
特に、アナトリア各地に点在する神秘主義者のネットワークを活用して、政治的安定を図ったという話も。
戦争で傷ついた社会を、信仰と精神性の面からも回復しようとした姿勢が垣間見えるんです。
メフメト1世の治世は「拡大」よりも「再建」がキーワード。でも、その地道な仕事が後の黄金時代を可能にしたんです。
まず何よりも分裂状態だった帝国を再統一した功績は大きいです。
ただ兄弟を倒して即位しただけでなく、各地で独立気味だった貴族・官僚・宗教勢力をうまくまとめ、国家としての一体感を取り戻しました。
さらに軍の再編、財政の建て直し、行政文書制度の整理など、帝国のシステムをもう一度機能させたという点で、極めて実務能力の高い皇帝だったんですね。
メフメト1世の時代は、あえて外征を控え、周辺国との外交関係を安定させることで内政に集中。
ハンガリーやビザンツとの関係も一時的に改善され、そのぶんアナトリアとバルカンにおける統治の再構築が可能になりました。
また、この安定期を利用して宗教施設の建設や文学の奨励にも力を入れ、文化の再生も図ったとされています。
メフメト1世は、派手さはないけれど、いちばん大事な仕事をやってのけたスルタンなんです。バヤズィトの“激しさ”と、メフメト2世の“偉大さ”をつなぐ、静かなる復興の立役者。まさに“オスマン帝国の再生工房”と呼ぶにふさわしい人物だったんですね。