ムスタファ4世は何した人?─従兄を殺害し弟に殺害される

ムスタファ4世は何した人?

オスマン皇帝紹介・第29代スルタン《ムスタファ4世》編です。改革派を弾圧し、兄セリム3世の暗殺も命じた逆行の統治者。自身もクーデターで廃位され、混乱の時代を象徴する存在となりました。その生涯や死因、性格や逸話、功績や影響を探って行きましょう。

第29代スルタン《ムスタファ4世》とは何した人?
─改革派を弾圧し兄も消そうとした反動皇帝─

ムスタファ4世(Mustafa IV, 1779–1808)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain

 

ムスタファ4世の基本情報
在位 1807年~1808年
出生 1779年9月8日
死去 1808年11月16日(処刑)
異名 改革潰しのスルタン

父:アブデュルハミト1世
母:アイシェ・セニム・スルタン

兄弟 マフムト2世(異母弟)
子供 記録なし
功績 セリム3世を廃位して即位するが、改革派を弾圧。政情不安の中で自らも廃位され、玉座奪還を図ったために処刑された。
先代 セリム3世
次代 マフムト2世

 

フランス革命の余波がオスマン帝国にも押し寄せ、国内では改革派と保守派が激しく対立──そんな不安定な時代のなか、ある若き皇帝が即位します。しかしその治世は、わずか1年ちょっと。

 

その人物こそがムスタファ4世(1779 - 1808)

 

この記事では、「挫折と陰謀」に翻弄されたムスタファ4世の波乱の治世と、その悲劇的な最期をわかりやすくかみ砕いて解説します。

 

 

 

生涯と死因

ムスタファ4世の人生は、わずかな栄光と多くの裏切りが交錯する、まさに“政変の申し子”だったともいえるかもしれません。

 

セリム3世の改革に反発して即位

ムスタファ4世はアブデュルハミト1世の息子。彼の即位は、1807年のカバクジ・ムスタファの反乱によって改革派のセリム3世が退位させられたことで実現しました。つまり、彼は保守派とイェニチェリに“担がれた皇帝”だったのです。

 

玉座を守るための暗殺命令

しかし翌1808年、アレムダール・ムスタファ・パシャ率いる改革派軍がイスタンブルに迫ると、ムスタファ4世は動揺し、自らの地位を守るために前皇帝セリム3世と弟マフムト(のちのマフムト2世)を暗殺するよう命令します。

 

結果、セリム3世は殺害されましたが、マフムトは奇跡的に脱出。この“命令”が仇となり、ムスタファ4世は即座に廃位され、数ヶ月後に処刑されました。享年わずか29歳──あまりにも短く、劇的な人生の幕切れでした。

 

性格と逸話

ムスタファ4世の人物像は、よく言えば柔軟、悪く言えば優柔不断。その「流されやすさ」が運命を分けたのかもしれません。

 

自己主張よりも迎合型

多くの記録が示すところによれば、ムスタファ4世は自ら積極的に政策を立てるタイプではなく、むしろ周囲の声に従って動くスタイル。即位も自身の意志というより、保守派の圧力の中で“押し上げられた”ものだったと考えられています。

 

セリム3世との複雑な関係

彼とセリム3世は従兄弟同士。かつては親しい関係にあったとも言われますが、即位の過程でセリム3世を幽閉し、最終的に死に追いやることになったのは、やはり“玉座”が彼にとって何よりも重かった証拠といえるでしょう。

 

 

功績と影響

正直なところ、ムスタファ4世の在位期間は短く、政治的成果を挙げるにはあまりにも不安定すぎました。

 

改革の“空白期間”を生んだ

彼の治世中、セリム3世が進めていたニザーム・ジェディード軍は解体され、欧化政策も停止。この1年ほどの“保守復活”は、結果的に改革の停滞をもたらすこととなりました。

 

マフムト2世の即位への布石

しかしその混乱があったからこそ、マフムト2世の即位と、その後の強権的かつ抜本的な改革が実現したのも事実。ムスタファ4世の“失敗”は、次代の変革の引き金となったともいえるのです。

 

ムスタファ4世は、時代の渦に飲み込まれた“即位させられた皇帝”でした。自らの手で政権を築いたわけではなく、理想を掲げることもできず、ただ運命に流されるように即位し、そして退位していった…そんな、歴史の切れ目に立った一人の若きスルタンだったのです。