オスマン帝国とワッハーブ王国の関係|帝国秩序に反する独立勢力

オスマン帝国といえば、イスラーム世界の“まとめ役”みたいな存在だったわけですが、その正統性に真正面から異を唱えた勢力がいました。それがワッハーブ王国、現在のサウジアラビアの原型とも言える存在です。
このワッハーブ運動、ただの宗教改革じゃなくて、オスマン帝国の中東支配に深刻な影響を与えたんです。
今回は、その関係性の経緯と背景をわかりやすく解説していきます!

 

 

ワッハーブ運動ってそもそも何?

ワッハーブ運動は18世紀半ばにアラビア半島で起きた超保守的なイスラーム改革運動です。
始めたのは宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブで、「イスラームを純粋に戻そう!偶像崇拝も、聖者崇拝もダメ!」っていう、かなりラディカルな主張でした。

 

サウード家と手を組んで“国家化”

このワッハーブの思想にガッチリ乗ったのが、アラビア半島中部の豪族サウード家
二人の連携で、宗教運動がそのまま政治勢力=ワッハーブ王国(第一サウード王国)へと発展していくんです。
つまり、これは宗教改革+国家建設がセットになった異色の勢力だったわけですね。

 

偶像崇拝排除の名のもとに聖地も襲撃

ワッハーブ王国は、やがてメッカ・メディナといったイスラームの聖地にも進出。
なんと聖者の墓を破壊したり、巡礼者を襲ったりといった行動まで取ります。
これは、スンナ派の“守護者”を自任するオスマン帝国にとって完全に挑戦行為でした。

 

オスマン帝国の反応は?

中東支配の大義名分が“宗教的正統性”だったオスマン帝国にとって、ワッハーブ運動の台頭は宗教的・政治的両面で看過できない大問題だったんです。

 

自分で軍を出す余裕はなかった

とはいえ、18世紀末のオスマン帝国は財政も軍事もガタガタ
ワッハーブ勢力に即応できるような機動力は残っていませんでした。
そこで頼ったのが、属州エジプトのムハンマド・アリー

 

ムハンマド・アリーが派兵して制圧

1811年、オスマン帝国の命を受けたムハンマド・アリーは息子トゥスーンやイブラーヒームに軍を率いさせ、メッカ・メディナを奪回し、ワッハーブ王国を事実上滅亡させます。
ただしこれは、オスマンが直接やったというより、エジプトの力を借りた“間接的な鎮圧”だったんです。

 

結局、この対立が残したものは?

オスマン帝国とワッハーブ王国の争いは一時的に終息しましたが、宗教的正統性・地方支配・宗派の多様性といったテーマを改めて浮き彫りにした事件でもありました。

 

帝国の限界と属州の自立を象徴

オスマン帝国が自分の手で抑えきれず、エジプトの力に頼ったという事実は、「帝国がもはや一枚岩じゃない」という現実を示していました。
このあとエジプトはどんどん独自路線を進み、最終的には半独立化していきます。

 

ワッハーブ思想は後に復活

ワッハーブ派そのものは完全に消えたわけではなく、後にサウード家が再び勢力を盛り返し、20世紀初頭のサウジアラビア建国につながっていきます。
つまり、この対立はオスマン帝国が抑え込んだ“中東の火種”のひとつでもあったんです。

 

オスマン帝国とワッハーブ王国の関係は、ただの宗教対立ではなく、イスラーム世界の“正統性”をめぐる大きな戦いだったんです。
そしてその結末は、オスマン帝国の地方支配の限界や、中東における新たな宗教・政治勢力の台頭を予感させるものでした。