
16世紀はじめ、イスラーム世界の中心地・エジプトを支配していたのは、由緒あるマムルーク朝でした。
でも、東から勢力をぐんぐん伸ばしてきたオスマン帝国が、それをじわじわと包囲し、ついに1517年に滅ぼしてしまいます。
じゃあ、オスマンはなぜ、どうやってマムルーク朝を征服していったのか?以下でその「エジプト征服」の流れをじっくり見ていきましょう!
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マムルーク朝(1250〜1517年)は、エジプト・シリア・ヒジャーズ(メッカ・メディナ)を支配していたスンナ派の大国。
しかも宗教的な権威も大きくて、アッバース朝のカリフを保護し、イスラーム世界における“守護者”としての地位を誇っていました。
マムルークってもともと軍人奴隷(マムルーク)なんだけど、戦闘スキルが高すぎて、いつの間にか王朝を建てちゃったという歴史。
十字軍やモンゴル軍ともガチンコで戦って勝利しており、イスラーム世界のプライドみたいな存在だったんです。
とはいえ16世紀になると、火器の導入が遅れたり、財政が不安定になったりと、少しずつ国力が陰り始めていました。
そこに出てきたのが、急成長中のオスマン帝国だったんですね。
この時期、オスマン帝国は東のシーア派国家・サファヴィー朝と真っ向からぶつかっていました。
でもマムルーク朝は「自分たちは中立で行くわ〜」って態度をとったのが、オスマンの怒りを買うきっかけになります。
スルタン・セリム1世(ヤウズ・セリム)は、徹底的にスンナ派の正統を守るスタンス。
1514年にチャルディラーンの戦いでサファヴィー朝を撃破すると、今度はサファヴィーと宥和的だったマムルークにも怒りの矛先を向けます。
どっちのスルタンが“イスラーム世界の代表”か?という宗教的プライドのぶつかり合いも背景にありました。
オスマンはスルタン=カリフを名乗りたい。でもその道をふさいでるのが、エジプトのマムルーク朝だったんです。
1516年、セリム1世はついに軍を南に向け、マムルーク領への本格侵攻を開始します。
これがオスマンの「エジプト征服戦争」の始まりです。
現在のシリア北部で行われた決戦。
オスマン軍は火器と機動戦術で優位に立ち、マムルークのスルタンカンスー・アル=ガウリーは戦死。
この時点でシリア全域がオスマンのものになります。
カイロ近郊に到達したオスマン軍が、マムルーク最後のスルタントゥーマーン・バイの軍を撃破。
カイロが陥落し、マムルーク朝は完全に滅亡。
この戦いで、オスマンはエジプト、そしてアラビア半島のメッカ・メディナも支配下に収めることになります。
この征服は、単なる「土地を奪った」という話じゃなくて、宗教・政治・経済のすべてで巨大な意味を持っていました。
マムルークが保護していたアッバース朝のカリフを、オスマンが“引き継ぐ”形になり、ここでセリム1世は「スルタン=カリフ」という宗教的権威も手にすることに。
この称号は、20世紀の帝国崩壊までずっとオスマンの“看板”になり続けます。
これによってオスマン帝国は、トルコ・アラブ・聖地・カフカス・バルカンと、イスラーム世界の中心をまるごと抱える超国家へ。
エジプト征服=オスマンのグローバル化とも言えるんです。
オスマン帝国によるマムルーク朝の滅亡=エジプト征服は、ただの領土拡大ではなく、宗教的正統性の獲得・アラブ世界の吸収・世界帝国化という巨大な転機でした。
サファヴィーとの宗派対立を発端に、「イスラーム世界の主役はどっちだ?」という争いの中で、オスマンは完全勝利を収めたんです。