
第32代スルタン《アブデュルアズィズ》とは何した人?
─海軍増強と欧州歴訪で注目される─
アブデュルアズィズ1世(Abdülaziz I, 1830–1876)
出典:Unknown author / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1861年~1876年 |
---|---|
出生 | 1830年2月9日 |
死去 | 1876年6月4日(退位後に謎の死) |
異名 | 近代海軍の育ての親 |
親 |
父:マフムト2世 |
兄弟 | アブデュルメジト1世(異母兄) |
子供 | ユスフ・イゼッディン、アブデュルメジト2世(最後のカリフ)ほか |
功績 | 西洋式の海軍を整備し、オスマン艦隊を当時世界最大級にまで拡張。欧州視察を行い、鉄道建設も進めたが、財政悪化と政治混乱から退位させられた。 |
先代 | アブデュルメジト1世 |
次代 | ムラト5世 |
19世紀後半──オスマン帝国は、改革の道を突き進みながらも、国内の矛盾と財政難に苦しんでいました。そんななかで即位したのが、力強く自立した近代国家を目指し、軍事と外交に意欲を燃やした“帝国主義型スルタン”。
その人物こそがアブデュルアズィズ(1830 - 1876)!
この記事では、鉄道や海軍の近代化、ヨーロッパ諸国との外交戦に力を注ぎつつも、晩年にはクーデターで退位させられた波乱の皇帝・アブデュルアズィズの実像を、わかりやすくかみ砕いて解説します。
アブデュルアズィズの治世は、「近代化の加速」と「国庫の枯渇」が同時進行する、ハイリスクな改革時代でした。
彼はマフムト2世の子で、兄アブデュルメジト1世の死後、1861年に即位しました。すでにタンジマート改革が始まって約20年──それをさらに前へと進めつつ、アブデュルアズィズは強い軍事力と帝国の独立性を重視する方向に政策の舵を切っていきます。
ところが1876年、財政破綻と政治混乱の中で宮廷内クーデターが起き、彼は強制的に退位させられてしまいます。数日後に謎の死を遂げたのですが、その死因は自殺説と暗殺説が今でも争われているんです。享年45歳。
アブデュルアズィズは、野心家で行動派。とにかく“見せる政治”を好んだタイプでした。
なんと彼は、オスマン皇帝として初めて自らヨーロッパ諸国を訪問。1867年にはフランス・イギリス・オーストリア・プロイセンなどを歴訪し、各国の君主と会見。鉄道や造船所、軍事施設などを見学しては「オスマンにも取り入れよう!」と熱心にメモを取ったといいます。
一方で、彼はかなりの贅沢好きでもあり、ドルマバフチェ宮殿をさらに改修したり、装飾品や欧州産の調度品を大量に輸入。こうした豪奢な暮らしぶりが、晩年の反発の一因にもなりました。
短期的には財政負担を招いたものの、アブデュルアズィズの改革には「国の近代化を加速させた」という側面が確実にありました。
彼は近代的な艦隊建設に熱心で、一時期オスマン帝国は世界第3位の艦隊保有国にまで上り詰めました。これは列強への牽制であると同時に、帝国内の権威を高める象徴的な政策でもありました。
オスマン帝国フリゲート艦エルトゥールル号(1863年建造)
アブデュルアズィズの治世に近代化政策の一環として建造され、後の「エルトゥールル号遭難事件(1890年)」で日土関係に影響を与えた軍艦
出典:Ottoman Empire / Wikimedia Commons public domain (PD-Ottoman)より
アブデュルアズィズはまた、鉄道敷設にも注力。ルメリア(バルカン半島)鉄道や小アジア地域での鉄道網が拡張され、郵便・電信といった通信手段も整備。これによって、帝国内の人・モノ・情報の流れが大きく変わることになります。
アブデュルアズィズは、豪腕と実行力を持ち合わせた“加速型スルタン”でした。大胆な軍拡や近代化で帝国に活を入れた一方、財政のバランスを崩し、最終的にはその反動で失脚してしまいます。時代を前に進めすぎた皇帝──そんな表現が、彼にはぴったりかもしれません。