
オスマン帝国とパレスチナ。
この2つ、歴史の中でどう関わっていたのか、ちょっとピンとこない人も多いかもしれません。でも実は、パレスチナは何百年ものあいだオスマン帝国の一部だったんです。
「違う国」ではあるけれど、歴史的には支配と被支配の関係。そしてその関係が、今の中東情勢にも少なからず影響を与えているんですよ。
|
|
比較項目 | オスマン帝国 | パレスチナ(主にオスマン統治下) |
---|---|---|
政治的地位 | 独立した帝国(スルタンによる統治) | オスマン帝国内の州(シリア州の一部 → イェルサレム特別行政区) |
統治期間 | 1299年〜1922年 | 1516年〜1917年(オスマンの支配下) |
宗教 | スンニ派イスラムを国教とし、他宗教を黙認 | イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ人が共存 |
首都(行政中心) | イスタンブール | イェルサレム(特別行政区としての中心) |
地理的特徴 | バルカン、中東、北アフリカを支配 | 地中海東岸、三宗教の聖地を擁する戦略・宗教的要地 |
住民構成 | 多民族・多言語(トルコ人、アラブ人、ギリシャ人など) | アラブ系住民が多数、宗教的には多様 |
軍事 | 常備軍イェニチェリ、火器を多用 | 軍事拠点ではなく、宗教的・行政的中心地 |
文化的役割 | イスラム・ビザンツ文化の融合、建築・文学の発展 | 宗教的巡礼地としての重要性、宗教施設の保全 |
支配の終焉 | 1922年(スルタン制廃止) | 1917年(第一次世界大戦中にイギリスが占領) |
名前はよく聞くけど、そもそもこの2つがどんな存在なのかをまず簡単におさらいしましょう。
国家規模も体制もまったく違うけど、地理的にはしっかりつながっていた関係なんです。
1299年に成立し、1922年まで続いたトルコ系スンニ派イスラム国家。
領土はヨーロッパ・アジア・アフリカにまたがり、最大で40か国以上にまたがる超大帝国でした。
政治・軍事・宗教をスルタンが統べ、近代以前のイスラム世界で最大級の勢力を誇りました。
パレスチナは現在のイスラエル、パレスチナ自治区(ヨルダン川西岸・ガザ地区)を含む地域のこと。
イスラム教・ユダヤ教・キリスト教の三大宗教の聖地が集中するため、宗教的・政治的に非常に重要な土地とされてきました。
長い歴史の中で、さまざまな帝国に支配されてきた場所でもあります。
オスマン帝国とパレスチナの関係は、「仲良し」とか「敵対」ではなく、支配と統治の関係でした。
その関係は約400年という長い時間にわたって続いています。
オスマン帝国は1516年のマルジュ・ダービクの戦いでマムルーク朝に勝利し、シリア・パレスチナ地域を併合。
それ以降、パレスチナはオスマン帝国の一州(地方行政区)として組み込まれ、1920年代までオスマンの行政・軍事・税制のもとにありました。
パレスチナにあるエルサレムは、イスラム教における第三の聖地。
オスマン帝国は、メッカ・メディナと並ぶこの聖地を丁重に管理・保護していました。
特にスレイマン1世の時代にはエルサレムの城壁を再建し、インフラ整備も行われるなど、都市としての整備も進められました。
「帝国に支配された」と聞くと重いイメージもありますが、オスマン帝国の支配は比較的“ゆるやか”で現地尊重型でした。
そのため、現地の文化や宗教との摩擦は少なかったと言われています。
オスマン帝国はミッレト制度を使い、ユダヤ教徒やキリスト教徒にも一定の自治と信仰の自由を認めていました。
エルサレムの聖地でも、各宗教の施設が共存する状態が保たれ、「複数の宗教が暮らせる都市」としての姿が維持されました。
オスマン時代には、土地所有に関する登記制度(タブー制度)が導入されました。
ところがこの制度があいまいで、誰が土地の正式な所有者かが後々まで曖昧に…。
これが20世紀のイスラエル建国・パレスチナ問題の中で、土地所有をめぐる対立の原因にもなっていくのです。
この長い関係も、20世紀に入ってついに終わりを迎えます。
第一次世界大戦に敗れたオスマン帝国は解体され、パレスチナは新たな支配者のもとへ移っていくのです。
1917年のバルフォア宣言を皮切りに、イギリスはユダヤ人のパレスチナ入植を支援し始めます。
そして戦後、国際連盟の委任統治という形でパレスチナはイギリスの管理下に。
ここから本格的にパレスチナ問題の現代的な幕開けが始まるのです。
トルコ共和国が誕生し、オスマン帝国が消滅したことで、パレスチナは“宗教的な庇護者”を失い、国際政治の駒にされていくことになります。
それは、安定から不安定への大きな転換でもありました。
パレスチナは約400年にわたりオスマン帝国の一部として統治されていました。
その支配は比較的寛容でしたが、帝国の崩壊とともに新たな混乱の時代が始まります。
今のパレスチナ問題の背景には、オスマン時代の土地制度や統治スタイルの名残もあるんです。