オスマン帝国の地中海進出の背景と制海権拡大の過程

オスマン帝国って、陸の軍事国家ってイメージがあるかもしれませんが、実は16世紀には地中海の制海権までガッツリ握ってたんです。
なぜオスマン帝国が海に乗り出したのか?そして、どうやってヴェネツィアやスペインと戦って海を制したのか?
今回は、オスマン帝国による地中海進出の背景と、その過程をわかりやすく解説していきます!

 

 

なぜオスマン帝国は“海”を目指したのか?

もともと内陸から出発したオスマン帝国が、なぜ地中海をめざすようになったのか?
その理由は、ただの拡大欲ではなく、戦略的・経済的なニーズがしっかりあったからなんです。

 

ビザンツを倒して“海が目の前”に

1453年、メフメト2世がコンスタンティノープルを征服したことで、オスマン帝国はついに本格的な海洋国家の地盤を手に入れます。
都市の背後には黒海とマルマラ海が広がっていて、ここを抑えることで東西貿易の要衝に浮上することに。

 

“西からの脅威”は海から来る

16世紀初頭になると、地中海ではヴェネツィアやスペインといった列強が次々に海上貿易を支配。
オスマンにとっては領土を守るにも経済を保つにも、海の安全が不可欠だったわけです。
つまり、「陸で勝っても、海を取られたら意味がない」って状況になってきたんですね。

 

制海権をめぐる戦いが本格化していく

海の重要性に気づいたオスマン帝国は、スレイマン1世の時代に本格的な海洋戦略を打ち出します。
ここからは、海の支配をめぐる激しい戦いの連続です。

 

最初のライバルはヴェネツィア

地中海東部では、長らくヴェネツィア共和国が貿易ルートと海上拠点を独占していました。
オスマン帝国はこれに挑み、1463年から何度もヴェネツィアと戦争を繰り返します。
最終的には、クレタ島やキプロス島など重要な拠点をオスマンが獲得し、地中海東部での優位を確保していきました。

 

地中海制覇の象徴「プレヴェザの海戦」

1538年、スレイマン1世の時代に、オスマン海軍(提督ハイレッディン・バルバロス)が、ヨーロッパの連合艦隊(いわゆる“無敵艦隊”)を撃破したのがプレヴェザの海戦です。
これにより、地中海東部の制海権は完全にオスマンのものとなり、ヨーロッパ側も手出ししづらくなります。

 

支配の拡大は“海賊”もうまく使ってた

オスマン帝国の海上戦略って、実は公式の艦隊だけじゃなくて、私掠船(海賊)も重要なパートだったんです。

 

海賊出身の提督が国家の英雄に

有名なのがバルバロス兄弟。特に弟のハイレッディン・バルバロスは、もともと地中海で活躍してた“半分海賊・半分商人”みたいな人物でしたが、スレイマン1世に認められ、帝国海軍のトップに抜擢されます。
彼の活躍で、オスマン帝国はアルジェリアなど北アフリカ沿岸まで支配を広げることに成功しました。

 

“海賊国家”としての一面も

北アフリカのオスマン属州では、オスマン公認の海賊が西ヨーロッパの港を襲撃しては、戦利品や捕虜を帝国に献上していたんです。つまり、“公式ではないけど戦略的”という形で海賊も活用されていました。

 

地中海支配のピークとその限界

16世紀半ばには、オスマン帝国の影響力は地中海の東側〜中央部にまで広がり、実質的に「地中海の東半分はオスマンの海」といってもいい状況になっていました。

 

でも、西欧の“海の世界戦略”には敵わなかった

17世紀以降、スペインやポルトガルはアトランティック(大西洋)とインド洋へ進出。
それに対して、オスマン帝国の勢力はあくまで地中海に限定されており、“世界海洋帝国”にはなりきれなかったという弱点も見えてきます。

 

1571年の「レパントの海戦」で一時後退

地中海西部をめぐって激突したレパントの海戦では、オスマン海軍がスペイン・教皇庁・ヴェネツィア連合艦隊に敗北
これはオスマン制海権の限界を突きつけた事件でもあり、以後の海洋支配はやや後退していくことになります。

 

オスマン帝国の地中海進出と制海権の拡大は、陸の支配と同じくらい戦略的で、しかも“したたか”でした。
香料貿易・軍事防衛・外交のすべてが海に直結していたからこそ、地中海をめぐる支配は国家の命運でもあったんです。
ただし、その覇権も大西洋勢力の台頭によって、やがて陰りを見せていくことになります。