
第一次世界大戦のあと、ヨーロッパ列強によってオスマン帝国はまるで「山分け」されるみたいに分割されそうになりました。セーヴル条約と呼ばれるあまりに無慈悲な条約によってです。
この記事では、この条約がどれだけ容赦なかったのか、窮地に立たされたオスマン帝国がどうやってそれに立ち向かったのかを見ていきましょう!
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まずこの「セーヴル条約」って、いったい何のために結ばれた条約なの?ってところからお話しますね。
これは1918年に終わった第一次世界大戦の“後片付け”の一環として作られたもので、敗戦国に対して戦勝国がいろんな条件を押し付ける内容でした。
ドイツやオーストリア・ハンガリーなどと同じく、オスマン帝国も敗戦国だったので、当然ながら厳しい条件をのまされる立場だったんです。
戦争が終わってすぐ、ヨーロッパ各国のリーダーたちはフランスのパリに集まって講和の条件を話し合いました。
その中で「オスマン帝国どうする問題」も大きなテーマになり、最終的に1920年にセーヴル条約という形で決まったんです。
この条約、内容を見るとほんとにオスマン帝国に対して遠慮ゼロ。
領土は大幅に削られ、経済も軍事もボロボロになるようにコントロールされていました。
じゃあ、このセーヴル条約によって、具体的にオスマン帝国は何を失ったのか?
ここではその“奪われっぷり”をちょっと整理してみましょう。
セーヴル条約がもっともインパクトを与えたのは、やっぱり領土の大幅縮小です。
しかも、イスタンブールとダーダネルス海峡すら国際管理にされそうになっていて、実質的には「トルコ本体」すら怪しくなるような状態でした。
条約では、軍の人数や兵器の保有にも厳しい制限がかけられました。
独立を保つどころか、「これじゃ自分たちの国も守れないよ…」ってレベルだったんです。
外国の資本や銀行にオスマン帝国の経済を握られた形になり、事実上の“経済植民地化”が始まってしまいます。
ここまで強引な内容になるって、ちょっと異常じゃない?って思いますよね。
でも当時の国際状況を考えると、戦勝国側にはいろんな「言い分」があったんです。
19世紀後半から、オスマン帝国は衰退の象徴みたいに見られていました。
だから戦後の再建の中で、「もうこの国には自力で立て直す力はない」と判断されていたんですね。
イギリス、フランス、ロシア(後にはイタリアやギリシャ)といった列強たちは、オスマンの領土を狙ってチャンスをうかがっていた状態でした。
戦争が終わって「さあ山分けしよう」って空気が濃厚で、セーヴル条約はその野心をそのまま紙にしたようなものでした。
実はこのセーヴル条約、内容こそド派手なんですが、オスマン帝国の新しい指導者たちが猛反発したことで、最終的には実現しなかったんです。
条約に納得できなかったのが、ムスタファ・ケマル(のちのアタテュルク)率いるトルコ国民運動。
「こんな不平等条約、絶対認めない!」って声を上げて、独立戦争を展開。
ギリシャ軍との戦いにも勝利して、状況はガラッと変わります。
最終的に1923年、セーヴル条約に代わってローザンヌ条約が結ばれ、トルコ共和国の領土や主権が改めて認められることに。
つまりセーヴル条約は、「発効されなかった幻の条約」として歴史に残ることになります。
セーヴル条約は、まさにオスマン帝国を地図から消そうとした一枚の紙切れでした。
でも、それに立ち向かって新しい国を作った人たちがいたからこそ、今のトルコ共和国があるんです。
「一方的な力の押しつけ」が通らなかったという歴史は、今の国際関係を考えるうえでも、すごく示唆に富んでいますね。