
オスマン帝国って、今のどこの国につながってるの?って聞かれたら、答えはトルコ共和国です。でも、「あ、じゃあ名前が変わっただけ?」と思ったら、ちょっと待ってください。実は地理的にはつながっていても、政治のしくみや国の考え方なんかはガラッと変わっているんです。ここでは、そんなオスマン帝国とトルコ共和国の“つながり”と“ちがい”を整理してみましょう。
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オスマン帝国とトルコ共和国は、年表上はまさに“地続き”。でもそのつながり方は、ただの「国の名前変更」ではありません。どちらも同じ場所にあった国だけど、目指していた方向性や価値観はかなり違いました。まずは、ざっくりとした流れを押さえてみましょう。
オスマン帝国の中心地だったのは、今のトルコ西部。特にイスタンブルは、帝国の首都として長く栄えました。そして帝国が終わった後も、トルコの大都市としてずっと続いています。こうした地理的な重なりがあるので、トルコは「オスマン帝国のあとにできた国」と言われることが多いんですね。
オスマン帝国はスルタンが絶対的な権力を持つイスラム国家でした。でも1923年に建国されたトルコ共和国は世俗主義・民主主義を掲げた近代国家としてスタートします。この大転換を進めたのがムスタファ・ケマル・アタテュルクです。彼は「もう昔のやり方じゃダメだ」と考え、帝政を廃止して、共和国を作ったんですね。
ただ国の形が変わっただけじゃなく、オスマン帝国とトルコ共和国では国民のあり方や国家の目指すもの自体がまったく違いました。それぞれの違いをもう少し細かく見ていくと、トルコ共和国がどうして「新しい国」だったのかがよくわかります。
オスマン帝国はトルコ人、アラブ人、ギリシャ人、クルド人、ユダヤ人など、さまざまな民族と宗教が共存していた多民族帝国でした。でもトルコ共和国では、「トルコ人」というアイデンティティを強く打ち出していきます。建国当初は特に、「トルコ人による、トルコ人のための国」という意識が色濃く出ていたんです。
オスマン帝国ではイスラム法(シャリーア)が国の根幹を支えていました。でもトルコ共和国では宗教と政治を切り離す世俗主義が導入されます。例えば、スルタンに代わって大統領制が導入され、宗教教育や服装の自由にも制限がかかるなど、国民の生活にも大きな変化がありました。
オスマン帝国とトルコ共和国は、確かに地理的には同じ場所にあったし、時系列的にも連続しています。でも中身を見ていくと、国の仕組みも、考え方も、人々の暮らし方も、大きく変わっているんです。だからこそ、トルコは「オスマン帝国の前身」ではあるけれど、まったく新しい国でもあると言えるんですね。
トルコ共和国は、オスマン帝国の上に立てられた国ではあるけれど、そこには大きな断絶と変化がありました。
同じ場所、でも新しい考え方で生まれた国。それが今のトルコなんです。