オスマン帝国の軍事改革はなぜ失敗したのか

オスマン帝国って、18〜19世紀にかけて何度も「今こそ軍を立て直すぞ!」と意気込んで軍事改革に取り組んでるんですが、そのたびに保守派の反発、制度疲労、外圧などでつまずいちゃうんです。
結局、帝国の終わりが見えてくる頃になっても、軍事力は「中途半端な近代化」のまま。
じゃあなぜ、あれだけ改革を試みたのにうまくいかなかったのか?その背景と原因を、わかりやすく整理してみましょう!

 

 

軍事改革って何をしようとしてたの?

まずは、オスマン帝国がどんな軍事改革を目指していたのかをざっくりと見ておきましょう。

 

西欧式の近代軍を作ろうとした

18世紀後半から、ヨーロッパ列強に押され始めたオスマン帝国は、「このままじゃマズい」と焦り始めます。
そこで目指されたのが、常備軍・制服制・訓練マニュアル・兵学校といったフランスやプロイセン型の軍隊制度への転換。
つまり“昔ながらの軍人集団”から、“国家組織としての軍隊”への切り替えだったんですね。

 

セリム3世の「ナイザーム=イ=ジェディード」

最初の本格改革はセリム3世によるもので、「ナイザーム=イ=ジェディード(新制度軍)」と呼ばれました。
これは完全に西洋式の装備・訓練・指揮系統を取り入れた新型軍隊で、後に近代軍制の基礎となる重要な試みでしたが――ここで最大の壁が立ちはだかります。

 

なぜ失敗したの?主な理由はこれ

せっかくの近代軍制も、なぜうまく定着しなかったのか?主な原因は以下のとおりです。

 

① 旧軍(イェニチェリ)からの猛反発

最大のネックがイェニチェリ軍団
かつては帝国最強だった彼らも、19世紀には世襲制・副業・政治介入で腐敗しきっていました。
でも既得権を守る意識だけは強烈で、新制度軍に嫉妬・警戒し、ついには反乱を起こして改革を潰してしまうんです。
セリム3世も最終的に廃位・殺害されてしまうという悲劇…。

 

② 予算と制度の不整備

西欧式軍隊って、見た目はかっこいいけどお金と訓練環境がめちゃくちゃ必要なんです。
でも当時のオスマン財政は、農業税と古い徴税制度(徴税請負制)に依存してて、改革を支えるだけの安定収入がなかった
だから武器・制服・給与が足りない兵学校の運営が不安定、って問題が多発します。

 

③ 社会全体の理解と支持が弱かった

「なぜ軍隊を西洋化しなきゃいけないのか?」という意識が、政府内でも社会全体でもまだ薄かった
保守的なウラマー(イスラーム法学者)や市民層は、西欧式の軍服や訓練が“異教的”に見えたこともあり、「それってイスラーム国家としてどうなの?」という宗教的・文化的な疑問も強かったんです。

 

マフムト2世で一旦立て直し…でも?

1826年、ついにマフムト2世がイェニチェリを武力で解体(ヴァカ=イ・ハイルィエ)し、西欧式軍制への道が本格的に開かれるんですが、それでも課題は続きます。

 

ドイツ式改革と軍人エリートの分断

19世紀後半にはドイツから軍事顧問団を招いて、本格的な改革が進みます。
でもその結果、軍人エリートと庶民の間に“階層の壁”ができてしまい、軍は近代化したけど国民軍とは呼べない状態に。

 

「軍だけ」改革しても国は変わらない

軍制だけ西欧化しても、税制・法制・経済・教育がそのままだと、改革の成果は全然根付かない。
つまりこれは“軍事改革だけの限界”でもあったんです。

 

オスマン帝国の軍事改革は、「近代化しなきゃ」という強い危機感から何度も試みられました。
でも既存勢力の抵抗、財政難、社会の不理解という三重苦により、いつも途中で頓挫してしまう。
そして気づけば、列強と肩を並べるどころか、“火薬庫”と呼ばれるほどの不安定国家に――。
軍事改革の失敗は、オスマン帝国が“近代国家”として脱皮できなかった大きな要因のひとつだったんです。