
オスマン帝国っていうと、つい陸軍――特にイェニチェリや騎兵隊の活躍に注目が集まりがちですが、実は海軍の存在もめちゃくちゃ重要だったんです。
特に16世紀には、地中海の覇者としてヨーロッパ列強とガチンコの海戦を繰り広げ、ときには“無敵艦隊”をも打ち破るほどの軍艦大国に成長していきました。
今回はそんなオスマン帝国海軍の浮き沈みと、軍艦たちの熱い戦いの歴史を振り返っていきましょう!
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オスマン帝国の海軍のルーツは、バルカンやアナトリア沿岸を支配し始めた頃から。
14世紀後半、マルマラ海沿岸の支配が進む中で、海賊対策+貿易ルート確保のために軍船が整備され始めます。
当初の主力は人力でオールを漕ぐガレー船で、航行速度と機動力が高く、地中海の近距離戦では抜群の使い勝手でした。
メフメト2世の時代になると、イスタンブールのガラタ地区に大規模な造船所が設けられ、ここで軍艦の建造・修理・訓練が行われるように。
いわばこの場所が、オスマン版「軍港都市」だったわけですね。
16世紀、スレイマン1世の治世下で、オスマン海軍は世界トップレベルの艦隊へと進化します。
この時代の大スターがバルバロス兄弟。
特に弟のハイレッディン・バルバロスは、かつて海賊だったのに海軍司令官(カプタン=パシャ)に任命され、地中海全域でスペイン・ヴェネツィア連合艦隊を圧倒します。
バルバロス率いる艦隊は、なんとあのスペインとヴェネツィアの連合艦隊を撃破!
この海戦の勝利によって、オスマン帝国は地中海の覇者としての地位を確立しました。
このときの主力艦もまだガレー船ベースで、砲台を前面に積んだ移動する要塞として活躍していたんです。
ところが、時代が進むにつれて、帆船中心の遠洋海軍の時代に突入していきます。
ヨーロッパ諸国(特にイギリス・オランダ)は、帆船+重火力という新しい軍艦を開発・量産。
一方のオスマンは地中海向けのガレー船戦術にこだわり続けたため、次第に海軍力に差が開いていきます。
スペイン・ヴェネツィアなどのキリスト教国連合に、オスマン艦隊は大打撃を受けます。
この海戦をきっかけに、海軍に対する国家の投資・優先度が下がってしまうという悪循環が始まります。
19世紀になると、オスマン帝国は西洋列強に対抗するため、海軍の近代化にも挑戦します。
アブデュルアジズ時代には鉄張りの装甲軍艦(アイアン・クラッド)や蒸気機関搭載艦が導入され、一時はイギリスに次ぐ世界第3位の海軍とまで言われたこともあるんです!
せっかくの近代軍艦も、運用資金不足・訓練不足・艦の老朽化で十分に活用されず、多くの艦船がイスタンブールの港でただ浮かんでるだけという状態に…。
“飾りの海軍”と化してしまったんです。
オスマン帝国の海軍は、最初こそガレー船+海賊系司令官で地中海を制した“実力派”。
でも技術革新と国家の優先順位のズレから、次第に“時代遅れの海軍”へと変わっていきます。
それでもプレヴェザ海戦のような輝きは、今もトルコでは「海軍の日」として記念され、帝国の誇りとして残っているんです。