
オスマン帝国が史上最大の領土に達したのは、ずばり
1683年頃――つまり第二次ウィーン包囲の直前の時期です。
このとき、帝国はバルカン半島・アナトリア・中東・北アフリカに加え、ハンガリーの大部分までを支配下に置いていて、およそ500万平方キロメートルもの広さを誇る、当時の世界最大級のイスラーム帝国だったんです。
じゃあ、その最大領土がどんなふうに広がってて、なぜこの時期にピークを迎えたのか?以下で詳しく見ていきましょう!
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1683年当時のオスマン帝国は、まさに“東西南北に伸びきった巨大帝国”でした。
ハンガリーを含むドナウ中流域を支配し、ウィーンの城門までオスマン軍が到達していました。
バルカン半島はほぼ全部がオスマン領で、ギリシャ、セルビア、ブルガリア、ボスニア、ルーマニア南部も完全に支配下に。
東ではグルジア(ジョージア)やアルメニアの一部まで進出。
イラン高原のサファヴィー朝との国境線が固まりつつあり、アゼルバイジャンやイラクの一部もオスマン領になっていました。
エジプト・スーダン・リビアから紅海を渡ってアラビア半島の聖地メッカ・メディナも実質的に支配。
これによってオスマン皇帝はイスラーム世界の最高指導者「カリフ」としての正統性も強化していきます。
クリミア半島には属国のクリミア・ハン国が存在し、黒海沿岸を広くコントロール。
これにより、オスマン帝国は黒海の“内海化”にほぼ成功していたんです。
オスマン帝国の版図がここまで広がった背景には、複数の理由がありました。
14世紀から地道に拡張を続け、特にメフメト2世、スレイマン1世といった超有能スルタンの時代に領土が急拡大。
その後、戦争と外交の積み重ねによって、17世紀後半までには徐々に“帝国の地図”が完成していったんです。
この時期までは、イェニチェリや騎兵隊、砲兵隊が一定の戦闘力を維持しており、大規模な戦争にも対応できる軍事体制の余力がありました。
ただしこれは最後の“元気な姿”でもありましたが…。
じつはこの最大領土のピークが、衰退のはじまりでもあったんです。
この年、カラ・ムスタファ・パシャがウィーンを包囲しますが、ポーランド王ヤン3世の奇襲で敗北。
ここから連戦連敗モードに突入して、ついにカルロヴィッツ条約(1699年)でハンガリーなどを喪失することに…。
このあとのオスマン帝国は、拡張どころか列強の侵食からどう守るかが最大のテーマに。
最大領土を記録したこの1683年は、華やかさと同時に“曲がり角”でもあったんですね。
オスマン帝国が最大領土に達したのは1683年頃。
ハンガリー、アラビア、北アフリカ、カフカスにまたがる巨大イスラーム帝国として世界に君臨していました。
でもその栄光の裏側では、軍事制度や行政の綻びが進行していて――このピークの直後、帝国は静かに下り坂を歩みはじめることになるんです。