
第19代スルタン《メフメト4世》とは何した人?
─第二次ウィーン包囲時の狩猟好き─
メフメト4世(Mehmed IV, 1642–1693)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1648年~1687年 |
---|---|
出生 | 1642年1月2日 |
死去 | 1693年1月6日 |
異名 | 狩猟好きのスルタン |
親 |
父:イブラヒム |
兄弟 | スレイマン2世、アフメト2世、ムスタファ2世 ほか |
子供 | ムスタファ2世、アフメト3世 ほか |
功績 | 大宰相キョプリュリュ家に政治を委ね、帝国の安定を図った。ウィーン包囲に失敗し失脚したが、キョプリュリュ・メフメトらの改革が軍事・行政を立て直した。 |
先代 | イブラヒム |
次代 | スレイマン2世 |
オスマン帝国のスルタンのなかには、長い治世のあいだに「名君」とも「暗君」とも評され、好調と不調を何度も行き来する“振れ幅の大きい皇帝”がいます。その典型といえるのが、幼くして即位し、帝国史上最長クラスの治世を誇った人物─メフメト4世(1642 - 1693)です。
この記事では、「狩人スルタン」として知られるメフメト4世の波乱に満ちた人生、宗教への傾倒、そして帝国の興隆と転落を分けたターニングポイントを、わかりやすくかみ砕いて解説します。
幼くして皇帝に祭り上げられた彼は、そのまま数十年にわたりオスマン帝国の顔となっていきます。
1648年、スルタンイブラヒムが廃位・殺害された後、その息子でわずか6歳のメフメト4世が即位。幼さゆえに、最初の数年間は母トゥルハン・スルタンや宰相による摂政政治が行われました。
しかし成長するにつれて実権を握りはじめ、強力な大宰相コプリュリュ家の登場とともに、帝国は一時的に安定期を迎えることになります。
1687年、戦局の悪化と民衆の不満を受けて、メフメト4世はついにイェニチェリの反乱によって退位させられます。以後はエディルネで静かに暮らし、1693年に死去。享年51歳でした。
なお、彼の治世は即位から退位まで39年と非常に長く、オスマン帝国史の中でも屈指の在位期間となっています。
「狩人スルタン」と呼ばれたメフメト4世には、ユニークでやや内向的な側面もありました。
彼は非常に信仰心の篤い人物として知られ、イスラム法に従うことを強く意識していました。飲酒や賭博を嫌い、宮廷でも倹約と禁欲を推奨したと言われています。
このような姿勢から、保守的な宗教学者(ウラマー)たちからの支持を集めることに成功し、政治的な後ろ盾にもなっていました。
一方、彼は狩猟が大好きで、政治をそっちのけにして森へ出かけてしまうこともしばしば。そんな姿勢から「アヴジ・メフメト(狩人メフメト)」というあだ名がつけられます。
政務を大宰相たちに任せ、自分は自然の中で弓を引く──そんな皇帝像も、当時の人々には新鮮に映ったようです。
長い治世のなかで、メフメト4世は帝国を一度大きく立て直し、しかし同時に衰退のきっかけも作ってしまいます。
最大の功績は、大宰相コプリュリュ・メフメト・パシャおよびその子孫を登用したこと。この一家は、腐敗した官僚を粛清し、税制や軍備を整え、帝国に秩序と財政的安定をもたらしました。
とくにコプリュリュ・ファズル・アフメトの時代にはバルカン方面での軍事的成功もあり、帝国は一時的に盛り返したのです。
しかし、治世後半の1683年・ウィーン包囲戦での大敗は決定的な転機となりました。ヨーロッパ諸国が結束した「神聖同盟」に敗れたことで、オスマン帝国の西方進出は完全にストップ。
その後の反乱と戦争続きで政権は不安定化し、メフメト4世はついに退位に追い込まれるのです。
二次ウィーン包囲(1683年)
メフメト4世の命で行われ、オスマン帝国の西方拡大の野望が挫かれた「決定的敗北」を意味する戦い
出典:Wikimedia COMMONS Public Domainより
メフメト4世って、宗教的にはまじめで倹約家だけど、実際の政治は部下に任せきりだった“静かな長期政権”って感じですよね。盛り上がった分だけ、最後の転落も大きかった──そんな山あり谷ありの皇帝人生だったわけです。