
19世紀のヨーロッパでじわじわと広まりはじめた「パンスラブ主義」。
これ、一見すると“スラブ民族の連帯を目指す運動”ってだけに聞こえますが、オスマン帝国にとっては帝国そのものの根っこを揺るがす危険な思想でした。
なぜかというと、オスマンの領土にはセルビア人、ブルガリア人、クロアチア人などたくさんのスラブ系キリスト教徒が暮らしていて、彼らが「一緒に独立しようぜ!」となったら……帝国は一気にバラバラになるリスクを抱えていたんです。
この記事では、「パンスラブ主義ってそもそも何?」「なぜオスマンにとって“ヤバい思想”だったのか?」を中心に、19世紀の国際情勢とともにわかりやすく見ていきましょう!
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まずはパンスラブ主義の基本的なところからおさえておきましょう。
その名の通り、「全てのスラブ民族は、文化的・歴史的に兄弟なんだから団結しよう!」という運動です。
スラブ民族とは、ざっくり言うと東ヨーロッパ~バルカン半島あたりに住む人たちのこと。
代表的なのは以下のような民族です:
彼らは言語や文化に共通点があり、19世紀になると「ひとつになろう!」という気運が高まりはじめます。
この時代のヨーロッパは、「民族ごとに国家をつくるべき」というナショナリズムの大波が押し寄せていました。
イタリアやドイツが統一を果たしたのもこの時期。
そんな中で、スラブ系民族たちも「俺たちもバラバラじゃなくて連携しよう」という文化的・政治的運動が起こったんです。
「他人が団結するのがそんなにまずいの?」と思うかもしれませんが、これが帝国にとっては致命的だったんです。
当時のオスマン帝国のヨーロッパ領、つまりバルカン半島には、セルビア人、ブルガリア人、ボスニア人、マケドニア人など、多数のスラブ系キリスト教徒が住んでいました。
彼らが「我々は兄弟民族、団結して独立しよう!」となると、オスマンの支配は一気に崩れてしまうんです。
さらに厄介なのが、ロシア帝国がこの運動をがっつり後押ししていたこと。
ロシアは同じ正教会・スラブ系の“兄貴分”を自称して、バルカンでの影響力拡大を狙っていました。
つまり、パンスラブ主義はロシアによる政治的カードでもあったわけです。
実際、19世紀後半から20世紀初めにかけて、パンスラブ主義の影響を受けたバルカン諸国が次々とオスマンから独立していきます。
こうした流れの裏には、ナショナリズムとパンスラブ主義の「思想と現実のタッグ」があったわけです。
1912〜13年の第一次・第二次バルカン戦争では、連合したバルカン諸国にボコボコにされ、オスマン帝国はヨーロッパの領土をほぼ全て失うことになります。
ここで帝国は“バルカンの夢”を完全に諦めざるを得なくなりました。
パンスラブ主義は、単なる民族の連帯運動ではなく、オスマン帝国にとって“地雷”みたいな思想でした。
民族が目覚め、団結し、後ろには大国ロシアがいる――そんな状況に、帝国の支配の前提がごっそり崩れていったんですね。
オスマンが“多民族国家”だったからこそ、その多様性を保てなくなったとき、崩壊はもう避けられなかったのかもしれません。