
エルサレムやバルカン半島、アナトリア、アラビア半島――オスマン帝国が支配していたのは、民族も宗教もバラバラな広大な地域でした。
そんな多様な人びとをひとつの帝国のもとにまとめるために考え出されたのが、「ミレット制度(Millet)」という、ちょっと変わった統治システムです。
この制度、現代の感覚からすると「えっ、宗教ごとに国家内国家があるの!?」って感じなんですが、それが当時は帝国の安定を支える仕組みとして大成功していたんです。
今回は、この“オスマン式多文化共存術”=ミレット制度について、仕組み・狙い・実際の運用まで、ざっくり&わかりやすく見ていきましょう!
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ミレット制度は、オスマン帝国が非ムスリム(イスラム教徒以外)の人びとに与えていた自治制度のことです。
宗教ごとのコミュニティが「国家の中の小さな国家」のように認められ、それぞれ自分たちのルールで運営していたのが特徴です。
「ミレット(Millet)」という言葉は、もともと「信仰・宗派」を表す言葉。
オスマン帝国では、イスラム教徒でない人々――たとえばギリシャ正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒などを、それぞれ別の「ミレット」として扱いました。
各ミレットには、オスマン政府から任命された宗教指導者(総主教やラビなど)がいて、その人が宗教・教育・司法・結婚・相続などの内政を管理。
つまり、「オスマン帝国」という大きな枠の中で、小さな宗教自治区がいくつも存在していたイメージなんです。
ミレットの中では、単なる礼拝や教義の問題だけじゃなく、生活全般のあれこれが宗教ごとに分かれて運営されていました。
たとえばミレット内の学校では、その宗教に基づいた教義教育・宗教史・母語の読み書きなどが教えられていました。
また、結婚・離婚・相続といった家庭内の問題も、イスラム法ではなく、それぞれの宗教法(カノン法やユダヤ法など)で裁かれていたんです。
もちろんミレットの構成員にはジズヤ(人頭税)と呼ばれる特別税が課せられていましたが、そのかわり改宗を強制されることは原則なし。
これは、当時のヨーロッパと比べるとかなり寛容な宗教政策だったと言えるでしょう。
じゃあなぜ、帝国はこんなに面倒な「宗教ごと自治」をわざわざやらせていたのか?
その理由は、ズバリコストと効率にありました。
宗教を抑え込むより、「信仰はそのままでいいよ」と言ったほうが、支配に対する抵抗を和らげられるんですよね。
そのぶん税は取るし、最終決定権はあくまでスルタン側にある。
ある意味、「譲るところは譲る。でも軸は渡さない」というバランス感覚に優れた統治術だったんです。
司法・教育・社会福祉などを宗教ごとに自己管理してもらうことで、オスマン帝国は行政コストをぐっと減らすことができました。
この分業体制が、600年も帝国を支え続ける一因になったとも言えるんです。
19世紀に入ると、ヨーロッパ的な「国民国家」の考え方が広まり、宗教ごとの区分よりも“民族”や“市民”としての統一が求められるようになります。
1839年以降のタンジマート(近代化)改革では、イスラム教徒も非イスラム教徒も同じオスマン国民として扱うという方針が打ち出されました。
これにより、ミレットの特権や区別は徐々に縮小されていきます。
ミレット制度は、オスマン帝国が終わりを迎える1920年代までゆるやかに存続しましたが、その後、トルコ共和国では「トルコ人」という単一の国民概念が重視され、宗教別の社会構造は姿を消していきました。
ミレット制度は、いわばオスマン帝国が考えた“共存の知恵”でした。
宗教や文化が違っても、うまく線引きをして、干渉しすぎず、でも放任せず。
それによって生まれたのは、多様な信仰と暮らしが共に息づく帝国という、今ではちょっと信じがたい世界だったんですね。