オスマン帝国による「ウィーン包囲」の目的と失敗理由

16世紀と17世紀、オスマン帝国はヨーロッパのど真ん中にあるオーストリアの首都ウィーンを2度も包囲しています。
「なぜわざわざそんな遠くまで攻め込んだの?」って思うかもしれませんが、実はこれは帝国にとってかなり本気の作戦だったんです。
ウィーン包囲の目的は「西ヨーロッパへの突破口を開くこと」。でも2度とも失敗に終わってしまいました。その理由を、以下でしっかり解説していきますね!

 

 

オスマン帝国はなぜウィーンを狙ったの?

ウィーンって、今でこそ音楽とカフェの街って感じですが、当時は神聖ローマ帝国の要所であり、ヨーロッパ防衛の最前線でもありました。
オスマン帝国から見ると、ここを突破すればドイツ・フランス方面への道が開けるという、戦略的にめちゃくちゃ大事な場所だったんです。

 

西ヨーロッパへの「扉」を開きたかった

当時のオスマン帝国は、東ヨーロッパ(ハンガリーやバルカン)をかなり支配していました。
でもその先にあるウィーンの壁を越えられなければ、それ以上は進めない。 つまり、ウィーンはヨーロッパを征服するための“玄関口”だったんです。

 

イスラームとキリスト教の「帝国対決」でもあった

オスマン帝国はイスラーム世界の代表、ウィーンを守っていたハプスブルク家はカトリック世界の中心
つまりこの戦いは、宗教的にも「どっちが主役になるか」っていう、世界の二大文明の対立でもあったんですね。

 

第一次ウィーン包囲(1529年)― スレイマン大帝の挑戦

最初の包囲はスレイマン1世の時代。すでにハンガリーを征服し、次の目標がウィーンでした。

 

準備不足と天候が大敵に

スレイマンは数万の兵を率いて進軍しましたが、長距離の移動で兵も装備もヘトヘト
しかも現地では大雨とぬかるみで攻城兵器が使えず、食料も不足。思っていた以上に「遠すぎたゴール」だったんです。

 

城の守りが意外と固かった

オスマン側は「ウィーンはそんなに強くない」と思っていたふしがあるんですが、いざ攻めてみると防壁も砲台もガッチリ
兵力では勝ってたのに、攻めきれずに包囲を解いて撤退することになります。

 

第二次ウィーン包囲(1683年)― 逆転されての敗北

150年後、今度はメフメト4世の時代に、ふたたびウィーン包囲が行われます。
総司令官は大宰相カラ・ムスタファ・パシャ。最初は「今度こそ落とせる!」ってかなり強気だったんですが…。

 

勝ちを焦ってミス連発

ウィーンの防御は強かったけど、オスマン軍は周囲の町や補給線を無視して首都だけを狙って突進
これが仇となり、補給が続かなくなったり、敵に背後を突かれたりと、徐々に形勢が悪くなっていきます。

 

ヨーロッパ連合軍が救援に登場

そして最大の逆転劇が起こったのがポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる援軍の登場。 「まさかポーランドがここまで早く来るとは!」とオスマン側は大混乱。
結局、総崩れになって包囲軍は撤退。この敗北をきっかけに、オスマン帝国のヨーロッパ進出は完全にブレーキがかかってしまうんですね~。

 

オスマン帝国がウィーンを包囲した目的は、ヨーロッパへの進出と覇権の拡大、そして宗教・文明の主導権争いにありました。
でも第一次包囲では準備不足と天候第二次包囲では指揮ミスと予想外の救援軍が敗北を招きます。
ウィーンを落とせなかったことで、オスマンの西方拡大は止まり、「ここが限界点」っていう歴史の分かれ道になったんですね。