
16世紀と17世紀、オスマン帝国はヨーロッパのど真ん中にあるオーストリアの首都ウィーンを2度も包囲しています。
「なぜわざわざそんな遠くまで攻め込んだの?」って思うかもしれませんが、実はこれは帝国にとってかなり本気の作戦だったんです。
ウィーン包囲の目的は「西ヨーロッパへの突破口を開くこと」。でも2度とも失敗に終わってしまいました。その理由を、以下でしっかり解説していきますね!
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ウィーンって、今でこそ音楽とカフェの街って感じですが、当時は神聖ローマ帝国の要所であり、ヨーロッパ防衛の最前線でもありました。
オスマン帝国から見ると、ここを突破すればドイツ・フランス方面への道が開けるという、戦略的にめちゃくちゃ大事な場所だったんです。
当時のオスマン帝国は、東ヨーロッパ(ハンガリーやバルカン)をかなり支配していました。
でもその先にあるウィーンの壁を越えられなければ、それ以上は進めない。 つまり、ウィーンはヨーロッパを征服するための“玄関口”だったんです。
オスマン帝国はイスラーム世界の代表、ウィーンを守っていたハプスブルク家はカトリック世界の中心。
つまりこの戦いは、宗教的にも「どっちが主役になるか」っていう、世界の二大文明の対立でもあったんですね。
最初の包囲はスレイマン1世の時代。すでにハンガリーを征服し、次の目標がウィーンでした。
スレイマンは数万の兵を率いて進軍しましたが、長距離の移動で兵も装備もヘトヘト。
しかも現地では大雨とぬかるみで攻城兵器が使えず、食料も不足。思っていた以上に「遠すぎたゴール」だったんです。
オスマン側は「ウィーンはそんなに強くない」と思っていたふしがあるんですが、いざ攻めてみると防壁も砲台もガッチリ。
兵力では勝ってたのに、攻めきれずに包囲を解いて撤退することになります。
150年後、今度はメフメト4世の時代に、ふたたびウィーン包囲が行われます。
総司令官は大宰相カラ・ムスタファ・パシャ。最初は「今度こそ落とせる!」ってかなり強気だったんですが…。
ウィーンの防御は強かったけど、オスマン軍は周囲の町や補給線を無視して首都だけを狙って突進。
これが仇となり、補給が続かなくなったり、敵に背後を突かれたりと、徐々に形勢が悪くなっていきます。
そして最大の逆転劇が起こったのがポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる援軍の登場。 「まさかポーランドがここまで早く来るとは!」とオスマン側は大混乱。
結局、総崩れになって包囲軍は撤退。この敗北をきっかけに、オスマン帝国のヨーロッパ進出は完全にブレーキがかかってしまうんですね~。
オスマン帝国がウィーンを包囲した目的は、ヨーロッパへの進出と覇権の拡大、そして宗教・文明の主導権争いにありました。
でも第一次包囲では準備不足と天候、第二次包囲では指揮ミスと予想外の救援軍が敗北を招きます。
ウィーンを落とせなかったことで、オスマンの西方拡大は止まり、「ここが限界点」っていう歴史の分かれ道になったんですね。