
第28代スルタン《セリム3世》とは何した人?
─近代化推進のもと「新秩序軍」を創設─
セリム3世(Selim III, 1761–1808)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1789年~1807年 |
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出生 | 1761年12月24日 |
死去 | 1808年7月28日(廃位・幽閉中に暗殺) |
異名 | 改革のパイオニア |
親 |
父:ムスタファ3世 |
兄弟 | 記録上は異母兄弟にムスタファ4世など |
子供 | なし(子の記録は残っていない) |
功績 | ニザーム・イ・ジェディード(新秩序)と呼ばれる近代軍創設を含む広範な改革を推進。保守派の反発により廃位され、のちに暗殺された。 |
先代 | アブデュルハミト1世 |
次代 | ムスタファ4世 |
18世紀末から19世紀初頭のオスマン帝国──ヨーロッパ列強がどんどん近代化を進めるなか、旧態依然とした制度にしがみつく帝国の未来は暗いと思われていました。そんなとき、ついに本気で“変革”に挑んだ皇帝が登場します。
その人物こそがセリム3世(1761 - 1808)!
この記事では、勇気をもって近代化に舵を切ったセリム3世の情熱と、その理想が迎えた結末までを、わかりやすくかみ砕いて解説します。
セリム3世の人生は「理想と現実のギャップに苦しんだ改革者」と言えるかもしれません。
セリム3世はムスタファ3世の息子で、叔父アブデュルハミト1世の死を受けて、1789年に即位。ちょうどフランスでは革命が始まるという激動の時代でした。彼は若い頃から外交や音楽、詩などに通じ、なかでもヨーロッパの技術や文化に強い関心を持っていた教養人です。
しかし、あまりにも急進的な改革が保守層の反発を招き、ついに1807年、イェニチェリの反乱(カバクジ・ムスタファの乱)によって退位を強いられ、翌1808年には宮中で暗殺されてしまいます。享年47歳。まさに改革半ばで散った理想主義者でした。
セリム3世は、芸術を愛し、変革を恐れないタイプの知的スルタンでした。
彼はオスマン古典音楽の作曲家としても知られ、数多くの作品を残しています。詩もよくし、ペンネーム「Ilhami(霊感を得し者)」で詩集を著したことでも有名。政治だけでなく芸術を通じて心を通わせようとした姿勢が伝わってきますね。
イスラーム社会において、西欧化は時に信仰との対立を意味しましたが、セリム3世は「改革は宗教に反するものではない」と繰り返し語り、ウラマーたちを説得しながら改革を進めようとしました。そのバランス感覚は当時としてはかなり稀有なものでした。
短い治世ながら、セリム3世の政策はオスマン帝国の後世に深い影響を与えました。
彼の代名詞といえばやはり「ニザーム・ジェディード(新秩序軍)」。旧式のイェニチェリ軍に代わる近代的な軍隊を創設し、西欧式の訓練や兵站制度を導入しました。これはのちのマフムト2世による本格的な軍制改革の礎となります。
また彼は、常設のヨーロッパ大使館を各国に設置するという画期的な措置を実施。これによりヨーロッパの最新情報がリアルタイムで届くようになり、国際政治に対応するスピードが上がったのです。さらに、徴税制度や財政の透明化にも着手し、近代国家への足がかりを築こうとしました。
セリム3世は、まさに“時代に先んじた改革皇帝”だったといえるでしょう。志半ばで命を落としたものの、そのビジョンと制度の種は、後の世にしっかりと受け継がれました。現実に潰されても、理想は消えなかったスルタンなのです。