
イスタンブール空撮写真(1918年3月19日)
第一次世界大戦末期、ドイツの飛行船から撮影された都市景観
出典:Lt. Gütermann / Bundesarchiv, パブリックドメインより
イスタンブール──その名前を聞くだけで、東西文明が交差する香りが漂ってきますよね。この都市は、単にオスマン帝国の首都というだけではなく、帝国の“顔”であり、政治・経済・宗教・文化のあらゆる機能が集中した巨大な中枢でした。もともとはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルだったこの都市を制したことで、オスマン帝国は名実ともに「世界帝国」へと飛躍したのです。では、そんなイスタンブールが果たした役割とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?
帝国全体の支配を可能にした「中枢機能」を持つ都市だったのです。
15世紀半ば、征服王メフメト2世によって建設されたトプカプ宮殿は、皇帝の居住地であると同時に、国家行政を司る「中枢機関」でもありました。大宰相(ヴェジル)をはじめとする官僚たちは、宮殿内の会議室で政治を動かし、スルタンの命令がここから全土へと発せられていたんです。
イェニチェリ(常備歩兵軍団)や艦隊の出撃も、基本的にはこの都市を起点として行われていました。とくに金角湾沿いの造船所は、オスマン海軍の誇る拠点であり、帝国の対地中海政策に欠かせない存在だったのです。
イスタンブールは、まさに「世界市場」の心臓部でもありました。
この都市は、アジア・ヨーロッパ・アフリカをつなぐ陸路と海路の交差点。シルクロードの西端としても機能しており、香料・絹・奴隷・金属などあらゆる物資が行き交いました。とくにエジプトからの穀物船が頻繁に出入りし、都市の人口を支えていた点も重要です。
グランドバザール(カパルチャルシュ)は、日用品から高級品まで何でも揃う巨大市場として発展。ギルド(職人組合)が集まり、それぞれの業種が専門地区を形成し、イスタンブールの経済を下支えしていました。
ボスポラス海峡とダーダネルス海峡という「海の関所」に位置するこの都市は、通過税・関税の集金にも非常に適していました。税収の多くはここで確保され、帝国の財政を潤す源となったわけです。
イスタンブールは、スルタンの力だけでなく、文化や宗教の力で人々を統合する舞台でもありました。
スレイマニエ・モスクやブルーモスクなど、巨大で壮麗なモスクが建ち並び、宗教と権力の一体化を象徴。オスマン建築の巨匠ミマール・スィナンによる都市空間設計は、政治的メッセージでもありました。
都市内には神学校(メドレセ)が点在し、法学・神学・天文学などが教えられ、多くのウラマー(宗教学者)がここで育ちました。また、図書館や天文台も併設され、学問都市としても名を馳せていたんです。
イスラム教だけでなく、ギリシア正教徒・ユダヤ教徒・アルメニア教徒など、さまざまな宗教共同体がこの都市で共存していました。スルタンがカリフであると同時に、これらの共同体の“保護者”でもあったことが、それを可能にしていたわけですね。
こうして見てみると、イスタンブールはまさにオスマン帝国そのものを体現するような都市だったと言えます。政治も経済も文化も、すべてがこの都市に凝縮されていたからこそ、「イスタンブールを失うことは帝国を失うこと」だったのでしょう。