列強に半植民地化されたオスマン帝国とその背景

このタイトルを見ると「え、オスマン帝国って一応“帝国”だよね?植民地にされたの…?」って思う人も多いと思います。
実は、オスマン帝国は直接的な植民地にはならなかったものの、19世紀になると列強の経済的・政治的な支配にがっつり巻き込まれて、気づけば“半分植民地”みたいな扱いを受けるようになってしまったんです。
この記事では、その裏にある歴史の流れと、列強による“見えない支配”の中身を見ていきましょう。

 

 

なんで帝国が“植民地っぽく”なったの?

まずは、「帝国なのに植民地化された」ってどういうこと?ってところを整理しておきましょう。
19世紀のオスマン帝国は、昔みたいな強さをどんどん失っていって、“弱体化したけどまだ大きい国”になっていました。
そのすき間に入り込んできたのが、イギリスやフランス、ロシアなどのヨーロッパ列強たちです。

 

オスマン帝国は「ヨーロッパの病人」と呼ばれていた

19世紀後半、列強の間でオスマン帝国は“もういつ倒れてもおかしくない”状態と見なされていました。
政治の腐敗、軍の弱体化、経済の不振…いろんな問題が重なって、「このままだと崩れるだけだな」と見られていたんです。

 

でも、完全に滅びられると困る事情もあった

オスマン帝国の領土はヨーロッパ・アジア・アフリカの境目という超重要な場所にあったので、列強は「じゃあ潰そう!」とは簡単に言えませんでした。
その代わりに選んだのが、経済と政治を間接的に握るという戦略だったんです。

 

列強による“植民地化”の中身

じゃあ実際に、どうやってオスマン帝国は列強に“支配”されていったのか。
ここでは、その代表的なやり口をいくつか見ていきましょう。

 

経済支配:借金漬けにされた帝国

オスマン帝国は19世紀に入ってから、近代化のためにヨーロッパから大量の借金をするようになります。
軍の装備を整えたり、鉄道や港を整備したり…そのたびにお金が必要だったんですね。

 

オスマン帝国の財政危機と列強の関与
  • 1854年:クリミア戦争でイギリス・フランスから初の対外借款
  • 1875年:財政破綻を宣言
  • 1881年:オスマン公債管理局の設立で、債権国が財政を監督

 

この「オスマン公債管理局」っていうのがポイントで、これはフランスやイギリスなどが実質的にトルコの税収を管理する組織でした。
つまり、自国の税金を自分でコントロールできなくなった…って、もうこれ半分以上植民地ですよね。

 

領土の“委任統治化”が進む

直接の植民地ではないけれど、戦争や外交を通じていくつかの地域は実質的に列強のものになっていきます

 

たとえば・・・

 

  • エジプトはイギリスに半独立状態にされたあと、最終的には占領状態に。
  • シリアやレバノンは後にフランスの委任統治に。
  • パレスチナやイラクはイギリスの支配下に。

 

こうして、オスマン帝国の“周り”からじわじわと領土が切り取られていったんです。

 

治外法権と通商特権で内政もズタズタに

もうひとつ忘れちゃいけないのがカピチュレーション(恩恵的通商特権)です。
これは中世のころから外国人に認めていた特権なんですが、19世紀になると列強がこれを逆手に取ってオスマン帝国の司法権・税制を大幅に侵害するようになります。

 

外国人はオスマン帝国内で裁かれず、自分の国の法律で守られるし、関税も激安
つまり、オスマンの中に外国の「ミニ国家」があるような状態になってたわけですね。

 

オスマン帝国が抜け出せなかった“半植民地”の罠

じゃあ、オスマン帝国はなぜこの状況から抜け出せなかったのか?
そこには当時の国内事情と、列強の戦略的な圧力が絡み合っていたんです。

 

近代化しようとすると、また借金が増える

鉄道を敷きたい、軍隊を近代化したい、学校を整備したい…どれも大事なことだけど、全部お金がかかる
自前ではまかないきれず、ヨーロッパに頼ると条件付きで貸されて、そのたびに支配力が強まる――とまあ、こんな具合に脱出不可能な悪循環に陥っていたんです。

 

国内政治の不安定さも足を引っ張った

スルタンの専制政治に対する反発、軍人・知識人のクーデター、地方の反乱など、国内はずっと不安定
だからこそ、列強は「お手伝い」と称して、ますます干渉してくるようになったわけです。

 

オスマン帝国は「帝国」の名前を持っていたけれど、19世紀には自分の税金も法律も他国に握られていたような状態でした。
武力での征服じゃなく、経済や法律を通じた“静かな支配”。
それでも、帝国の人々は少しずつその構造に気づき、やがて独立運動や革命へとつながっていくんですね。
見えない支配ほど、気づいたときの衝撃は大きいものです。