
ヒジャーズ鉄道の地図
ドイツの技術援助と資金提供によって建設が進められたが、イスラーム世界の統合と巡礼の利便性向上という成果を挙げた一方、戦争と反乱で寸断され、実質的に崩壊する末路をたどった
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オスマン帝国の末期、帝国の命運を賭けた戦線に現れた“動く要塞”──それが装甲列車です。とくにアラビア半島を南北に貫くヒジャーズ鉄道は、単なる交通インフラではなく、軍事作戦を下支えする命綱でもありました。この記事では、そんな鉄道と装甲列車が果たした戦略的役割に注目しながら、近代オスマン帝国の軍事的モビリティ革命をわかりやすくかみ砕いて解説していきます。
まずは、軍事車両の舞台となった鉄道路線の正体を押さえておきましょう。
1900年に建設が始まったヒジャーズ鉄道は、ダマスカス~メディナ間を結ぶイスラーム巡礼用の国家プロジェクトでした。ハッジ(巡礼)を安全・効率的に行えるようにという宗教的名目でスタートした一方で、帝国の南方支配強化という戦略目的も密かに含まれていました。
完成したヒジャーズ鉄道は、ほどなくして軍隊の輸送・物資の補給といった軍事任務にフル活用されます。アラビア半島の過酷な砂漠地帯において、大量の兵力や装備を迅速に展開できる手段として、この鉄道の重要性はどんどん増していきました。
過酷な戦線では、列車そのものが“戦闘手段”になることも。
装甲列車とは、鋼鉄で外装された車両に機関銃や小型砲を搭載した“走る要塞”。窓や扉は防弾装備で固められ、敵の銃撃に対して防御力と攻撃力を両立していました。とくにゲリラ戦が多発したヒジャーズ鉄道では、装甲列車による巡回と応戦が極めて重要だったのです。
1910年代のアラビアでは、アラブ民族運動やイギリスの支援を受けた反乱軍による鉄道襲撃が頻発。これに対抗するため、オスマン軍は機関銃を装備した装甲列車で区間をパトロールし、破壊工作を未然に防ぐ試みを続けました。列車が即応戦力そのものとなっていたのです。
ヒジャーズ鉄道と装甲列車は、大戦の中でどんな意味を持っていたのでしょうか。
1914年以降、オスマン帝国はイギリス・フランスと中東戦線で激突。そのなかでもヒジャーズ鉄道は前線と本国をつなぐ補給路として機能し、兵士・水・武器・食糧といった物資の大量輸送が実現しました。鉄道網の存在が、戦線の維持を可能にしていたわけです。
しかしその鉄道を標的にしたのが、あの「アラビアのロレンス」ことT・E・ローレンス。彼が支援するアラブ反乱軍は、列車やレールを襲撃し、鉄道網を寸断。オスマン側は装甲列車や工兵部隊で応戦しましたが、戦線の縮小を余儀なくされていきました。
このように、ヒジャーズ鉄道と装甲列車は、近代オスマン帝国の“機動戦”を支える生命線でしたが、同時にその脆弱さも露呈する結果となったのです。