
オスマン帝国が近代化を進める中で建設した一大国家プロジェクト、それがヒジャーズ鉄道。帝国の威信をかけて作られたこの路線は、単なる交通インフラではなく、“宗教・軍事・政治”を結ぶ象徴だったんです。
でも、そんな鉄道が迎えたのはあまりに数奇な運命。
今回は、このオスマン帝国の装甲列車=ヒジャーズ鉄道の誕生から、その悲劇的な末路、そして今に残る“名残”までをたどってみましょう!
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ヒジャーズ鉄道(Hicaz Demiryolu)は、メッカ巡礼と軍事輸送を目的に建設された超重要路線です。
計画されたのは19世紀末。完成したのは1908年で、スルタン・アブデュルハミト2世の命によって実現しました。
この鉄道は、シリアのダマスカスからサウジのメディナまでを結び、巡礼者を安全かつ迅速に聖地へ運ぶことができるようになったんです。
見た目は“宗教支援”っぽいけど、実は裏では軍隊の迅速な派遣が本命でした。
というのも、アラビア半島の部族反乱やイギリスの干渉に対応するには、兵の移動手段が決定的に足りてなかったんですね。
なのでこれは「聖戦にも通じる軍事プロジェクト」でもあったんです。
第一次世界大戦が始まると、この鉄道は前線輸送と物資運搬の命綱になります。
そしてここで登場するのが、武装された“装甲列車”です。
アラブ人反乱や遊牧部族の襲撃が頻発するようになり、鉄道の安全を守るために列車そのものを“走る要塞”に改造します。
機関車に鉄板を貼って装甲化し、側面に機関銃の銃眼をつけるなどして、移動する兵舎のような使い方をしていました。
あの“アラビアのロレンス”ことT.E.ロレンスらのゲリラ部隊が、この鉄道を何度も爆破。レールの破壊・駅舎の襲撃・橋の落下といった妨害が続き、戦略物資を満載した鉄道が、逆に“的”になってしまうという皮肉な状況に陥ります。
第一次世界大戦が終わると、オスマン帝国も崩壊。ヒジャーズ鉄道はそのまま放棄されてしまいます。
戦後、シリア、ヨルダン、サウジアラビアなどが独立・分割されると、ヒジャーズ鉄道の路線はそれぞれの国の中で寸断。
特にメディナ以南はサウジ側に取り込まれ、「イスラーム帝国の巡礼路線」は消滅してしまいました。
使われなくなった線路や駅舎、装甲列車の残骸は、現地の人々によって家の材料や農機具にリサイクル。
まさに「文明の残り香」として、ひっそりと姿を変えて人々の暮らしに溶け込んでいったんです。
完全に消えたわけじゃありません。今でもこの鉄道の“痕跡”や“記念館”は、中東各地に残っているんです。
ヨルダンの首都アンマンにはヒジャーズ鉄道の博物館があり、当時の蒸気機関車や車両、砲台付きの装甲列車が展示されています。
ダマスカスにも保存された駅舎があり、「イスラームの近代遺産」として大切に保管されているんです。
一部では鉄道路線の復活プロジェクトも持ち上がっていますが、中東の政情不安やインフラの老朽化もあって、なかなか進んでいないのが現状です。
ヒジャーズ鉄道は、オスマン帝国が「信仰・軍事・近代化」をまとめて実現しようとした象徴的インフラでした。
でもその野望は、戦争と分裂によって断ち切られ、列車ごと歴史の彼方へ消えていきます。
それでもその痕跡は今も、中東の大地のどこかで、かつての帝国の鼓動を静かに語り続けているんです。