
オスマン帝国が「近代化」の道を本格的に歩き出すきっかけとなったのが、1839年に発表されたギュルハネ勅令。
これはただの宣言じゃなくて、帝国全体の「国家のあり方」を根本から見直すスタートラインだったんです。
でも、このギュルハネ勅令とよく混同されるのがタンジマートという言葉。
実はこの2つ、意味は近いけど立ち位置も内容も微妙に違うんです。
ここでは、ギュルハネ勅令がどうやって生まれたのか、その特徴とタンジマートとの違いを整理していきます!
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ギュルハネ勅令(ハット・イ・シェリーフ・ギュルハーネ)は、1839年にスルタン・アブデュルメジト1世が発布した改革の基本方針です。
場所はイスタンブールのトプカプ宮殿内「バラ園(ギュルハネ)」、だからこの名前がついています。
当時のオスマン帝国は、軍事でも経済でもヨーロッパ列強に圧倒される状況。
さらに内政もボロボロで、汚職、重税、軍の弱体化、民族反乱が相次いでました。
そこで、「このままじゃ帝国が崩れる!」という危機感から、一気に制度を変えて立て直そうと決意したわけです。
この改革を主導したのが、ヨーロッパ経験豊富な官僚ムスタファ・レシト・パシャ。
彼はフランスやイギリスの制度を参考に、「法による支配」や「国民の権利」を取り入れようとしたんですね。
ギュルハネ勅令の中で示されたのは、具体的な法律というよりも国家運営の“原則”です。
「これからこういう国を目指しますよ」という理念の宣言なんですね。
ムスリムも非ムスリムも関係なく、全臣民に対して基本的人権を認めるという大転換。
これは、それまでのイスラーム的な「共同体ごとに異なる法」から、一元的な“国民”への第一歩でした。
今までは役人が勝手に税を取って私腹を肥やすケースも多かったけど、勅令では「法律に基づいて、公平に課税する」と明言。
行政の近代化=腐敗防止も目指してたんです。
兵役期間の明確化と制度化が進められ、軍の質と公平性を向上させる意図もありました。
この2つ、よく混ざるけど、実はギュルハネ勅令は“改革宣言”、タンジマートは“改革そのもの”という位置づけです。
タンジマート(Tanzimat)はアラビア語で「整理・再編成」という意味で、 一般的には1839年のギュルハネ勅令から、1876年のミドハト憲法までの一連の改革期を指します。
ギュルハネ勅令はそのスタートを切る“旗揚げ”。タンジマートはそこから進んでいった実際の法制度・行政改革のプロセス全体といえるでしょう。
勅令後、以下のような実務的な改革がどんどん進められます:
こういった動き全体を「タンジマート」と呼ぶんですね。
ギュルハネ勅令は、オスマン帝国が「全臣民に平等な権利を保障する近代国家」を目指すと宣言した大きな転換点。
でもこれはあくまで“理念”であって、実際の制度や法律の整備はその後のタンジマート改革で進められました。
勅令=宣言、タンジマート=実行というイメージを持っておくと、スッと理解しやすくなりますよ!