オスマン帝国とフランスの関係|同盟という名の“打算と便乗”

えっ、オスマン帝国とフランスって、敵同士じゃなかったの?――って思いますよね。
ところがどっこい、16世紀から19世紀にかけて、意外にもこの2国はけっこう仲が良かったんです。
ただしその仲の良さっていうのは、お互いの都合を最優先にした「打算と便乗の同盟関係」だったんですね。
今回は、このちょっと不思議で現実的すぎるオスマン=フランス関係を、時代ごとに解説していきます!

 

 

きっかけはヨーロッパの“権力バランス”だった

オスマン帝国とフランスが急接近するのは16世紀の前半、その背景には「ヨーロッパの勢力図」が大きく関わってきます。

 

敵の敵は味方!フランスの狙い

当時、ヨーロッパでは神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)がものすごい勢力を持っていました。
スペインもハプスブルク家なので、フランスは西と東から挟まれてる状態
そこでフランス王フランソワ1世は、「オスマン帝国と組んでハプスブルクを牽制しよう!」と考えたわけです。

 

オスマンにとっても悪くない話

ちょうどこの頃、オスマン帝国もヨーロッパに勢力を拡大中。
バルカンからハンガリー、ウィーンまで攻め込んでいたので、フランスという“中から崩すパートナー”はとても魅力的でした。
こうして成立したのが、オスマン=フランス同盟です。ヨーロッパのキリスト教国とイスラーム帝国がタッグを組むという、当時としては異例中の異例!

 

実際の協力内容は?

この同盟、ただの言葉だけじゃなく、実際に軍事・外交・経済での連携が行われていたんです。

 

地中海で“連携プレー”も

有名なのが、プレヴェザの海戦(1538年)での連携。
フランスがハプスブルクと敵対する一方で、オスマン海軍(バルバロス)が連合艦隊を撃破。
これはフランスが西で戦ってオスマンが東で戦うという、見事な「挟み撃ち」戦術でした。

 

フランスが“超お得な貿易権”をゲット

1535年、フランスはオスマン帝国からカピチュレーション(通商・治外法権の特権)を獲得。
このおかげでフランス商人は、オスマン領内でほぼ無税+自国法で守られるという、超破格の待遇を手に入れたんです。
これが後に他のヨーロッパ諸国にも広がっていき、オスマン帝国の“主権喪失”の種にもなっていきます。

 

18世紀以降は“文化と支配”の関係に

近代になると、フランスはオスマン帝国を軍事的に支援するというより、文化的・制度的に介入するスタンスに変わっていきます。

 

フランス語とフランス式教育が浸透

オスマンの上層階級では、19世紀になるとフランス語がエリート言語に。
留学先もほとんどがパリで、法律や医学もフランスの制度をモデルにするなど、まさに「ソフトパワー」で帝国に食い込んでいった感じです。

 

“保護国のような扱い”になっていく

外交・教育・商業…とあらゆる面でフランスの影響が強まり、オスマン帝国は主権国家とは言い難い状態に。
もはや対等な同盟とは言えず、フランスの“文化的植民地”みたいな存在に近づいていったんです。

 

オスマン帝国とフランスの関係は、はじめは「敵の敵は味方」という打算的な軍事同盟から始まりました。
でも後になると、それが経済的依存と文化的支配につながっていき、最終的には“対等なパートナー”から“都合のいい相手”に変わっていく――そんな現実的な国際関係だったんです。