
実は、オスマン帝国の宮廷や富裕層のあいだでは、中国から輸入された青花(せいか)磁器――いわゆる“白地に青模様のお皿”がものすごく高く評価されていたんです。
この記事では、どうして遠く離れた中国の陶磁器がオスマン社会に広まり、やがて帝国内で独自の陶器文化まで生まれることになったのか、その背景を見ていきましょう。
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オスマン帝国は15〜17世紀にかけて、ヨーロッパとアジア、アフリカの交易の交差点にあたるグローバルな大帝国でした。
その中心となるイスタンブールには、東西のさまざまな物資や文化が流れ込んでいて、「世界のいいモノ」を見つけて取り入れる力に非常に長けていたんですね。
そんななかで特に注目されたのが、中国から届く磁器。なかでも明代に生産された高品質な青花磁器は、オスマンの上流階級にとって“理想の器”だったんです。
中国の青花磁器は、絵付けがきめ細かくて華やかなだけじゃなく、釉薬(ゆうやく)でしっかり焼き締めてあるからとても丈夫。
見た目の美しさと実用性のバランスがちょうどよくて、「これこそ王宮にふさわしい器!」と評価されるようになります。
特に16世紀のスレイマン1世(大帝)の時代には、中国磁器の蒐集(しゅうしゅう)がブームになります。
宮廷には数百点、時には数千点規模の中国磁器コレクションが並び、贈答品や外交の“格”を示す道具としても使われました。
じゃあ、そもそもなんでそんなに遠い中国の器がオスマン帝国まで来られたのか?
そこには海と陸のシルクロードを通じた長い交易ネットワークがありました。
磁器はまず中国の港からインド洋を経由して、アラビア半島やペルシャ湾の商人の手に渡り、そこからオスマンの港に到着する、という流れです。
特にオスマン帝国がエジプトや紅海沿岸を支配下におさめたことで、アジアとの交易の主導権も握るようになりました。
中国から中央アジアを経てイラン、そしてアナトリアへと抜ける陸の交易ルートも、磁器の供給経路として生きていました。
この頃のオスマンは、東西交易のハブというポジションを最大限に活かして、優れた美術品を“ごっそり”取り込んでいったわけですね。
オスマン帝国はやがて「中国磁器のような美しい器を自分たちでも作りたい!」と思うようになります。
そこで登場するのが、帝国を代表する陶器文化――イズニック陶器です。
15世紀末から16世紀にかけて、オスマン帝国はアナトリアの町・イズニックを中心に自国製の高級陶器の生産を始めます。
青と白を基調にした文様、細かな植物模様やアラベスク文様は、明らかに中国磁器を意識したデザインでした。
最初こそは中国風の模倣が多かったものの、やがてトルコ独自のスタイルに進化していきます。
チューリップ、カーネーション、ザクロなど、イスラム文化圏ならではの植物モチーフが登場し、オスマン陶器は中国磁器と並ぶ高級美術品として認知されるようになっていきました。
こうして中国から渡ってきた磁器は、オスマン帝国において単なる舶来品ではなく、文化的なお手本として受け入れられました。
そこから模倣→改良→独自の表現へと発展し、オスマン美術の黄金時代を支える一要素になっていったんです。
宮廷の食器としてはもちろん、外交の贈り物や建築装飾にも使われ、“磁器のある国=洗練された文明国家”というイメージづくりにもひと役買っていました。
中国の磁器は、オスマン帝国にとって美術品であり、権威の象徴であり、憧れの対象でもありました。
そしてその憧れが、イズニック陶器という新たな文化の花を咲かせることに。
こうやって異文化との出会いが、オスマン独自のアイデンティティを育てていったんですね。