
第24代スルタン《マフムト1世》とは何した人?
─反乱を鎮めて安定を取り戻す─
マフムト1世(Mahmud I, 1696–1754)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1730年~1754年 |
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出生 | 1696年8月2日 |
死去 | 1754年12月13日 |
異名 | 文芸に通じたスルタン |
親 |
父:ムスタファ2世 |
兄弟 | オスマン3世 ほか |
子供 | シャー・スルタン、ゼイネプ・スルタン ほか |
功績 | パトロナ・ハリルの反乱後に即位し、国内の安定化に努めた。詩作を愛し、文化振興に力を注いだ一方、軍事面では宰相らに委ねる姿勢を取った。 |
先代 | アフメト3世 |
次代 | オスマン3世 |
オスマン帝国が「チューリップ時代」の夢から一気に現実へと引き戻された1730年代。反乱・内乱・外敵の脅威が重なり、帝国全体が混沌としていた時代に、ふたたび王位に呼び戻されたのが、長年幽閉されていた静かな王子でした。
その人物こそがマフムト1世(1696 - 1754)!
この記事では、混乱のなかで即位し、文化の再建と行政改革を着実に進めた「静かなる再建者」マフムト1世の人物像を、わかりやすくかみ砕いて解説します。
マフムト1世は、派手な軍事行動こそ少なかったものの、安定と改革を地道に進めたスルタンでした。
マフムト1世は、ムスタファ2世の息子で、兄がアフメト3世という血筋の皇子。長らく幽閉されていましたが、1730年にパトロナ・ハリルの乱によって兄アフメトが退位させられたのを受けて即位しました。
まさに内乱の渦中での即位で、王宮周辺では反乱軍がうろつく不安定な状況。即位直後から“王としての威厳”を取り戻す戦いが始まります。
即位後は、軍制や財政、文化の再建を一歩ずつ進め、結果的に23年間も帝位にとどまります。1754年、イスタンブールで病死。享年58歳。
目立たないながらも、中興の一歩を築いた穏やかな皇帝として記憶されることになります。
マフムト1世は、内向的で信仰深く、派手な政治スタイルを嫌う慎重な人物でした。
彼は反乱直後の帝国を安定させるため、とにかく波風を立てない統治を心がけたとされています。イェニチェリ軍や宗教勢力にも配慮を見せ、荒立てずに改革を進めていくスタイル。
また、側近との信頼関係を重視し、特に大宰相ハジ・アリー・パシャを通じての間接統治に徹しました。
文学的な才能にも恵まれたマフムト1世は、自ら詩や書道をたしなみ、文化人との交流も活発に行いました。趣味の域を超え、王としての“文化的品格”を表現する手段としても用いていたんですね。
そうした一面は、アフメト3世の「チューリップ時代」と地続きの文化を引き継いでいたともいえるでしょう。
戦争よりも制度・文化の整備に重きを置いたマフムト1世。その功績は“静かだけど確実”なものでした。
まず即位直後に課題となったのが、パトロナ・ハリルの乱の残党処理。マフムト1世は、旧反乱軍の粛清とともに、イェニチェリ軍の再訓練・監督体制を整え、軍事の安定を回復させます。
ただし強硬手段は避け、妥協と説得による収束を目指したのが特徴。流血を最小限にとどめた点は、前代とは対照的でした。
文化面では、イブラヒム・ムテフェッリカの印刷所の活動を支援し、トルコ語での科学・歴史書の出版が進みました。
また神学校(メドレセ)の改革にも着手し、宗教と合理主義の両立を模索する知識人たちを積極的に登用したんです。
マフムト1世って、ド派手な武功はないけど、ボロボロだった帝国を静かに立て直した“再建スルタン”だったんですね。表に出てこないけど、こういう人こそじつは一番ありがたい存在かもしれません。