オスマン帝国とペルシャ帝国の関係

オスマン帝国とペルシャ帝国(主にサファヴィー朝)――この2つの大国は、まるで隣に住んでる犬猿の仲のような存在でした。
どっちもイスラーム世界を代表する強国だったけど、宗派・領土・貿易をめぐって何度もバチバチにやり合ってたんです。
でも実は、単なる「敵対関係」だけじゃなくて、文化や外交の面ではつながりもあったというのが面白いところ。
今回は、この2つの帝国の関係を、対立と交流の両面から見ていきましょう!

 

 

対立の発火点は“宗派”だった

オスマン帝国とペルシャ帝国の間には、領土問題もあったけど、根っこにあった最大のズレはイスラーム内部の宗派の違いでした。
この違いが、単なる宗教の話にとどまらず、政治的な正当性の争いにまで発展していくんです。

 

オスマンはスンナ派、ペルシャはシーア派

オスマン帝国はスンナ派を国教としており、イスラーム世界の“主流派”としての立場を強く主張していました。
それに対して、16世紀初頭に登場したサファヴィー朝ペルシャは、十二イマーム派(シーア派)を国教化。
この宗派の違いが「うちは本当のイスラームの後継者だ」という正当性争いに火をつけたわけです。

 

スンナvsシーアの代理戦争みたいに

両国の対立は単なる外交摩擦ではなく、宗派間の宗教戦争的な意味合いも帯びるようになります。
オスマンは、サファヴィー朝の支配地域にいるスンナ派の人々を「味方」とし、サファヴィー側はシーア派の聖地や聖職者の保護を通じて、自国のアイデンティティを強く打ち出していくんです。

 

何度も起こった“熱い戦争”と冷戦状態

両者の関係は、16世紀以降たびたび本格的な戦争に発展します。
でも、それと同時に外交交渉や停戦も繰り返されるという、にらみ合いと爆発の繰り返しでもありました。

 

チャルディラーンの戦い(1514年)でオスマン勝利

この戦いは、スルタン・セリム1世率いるオスマン軍が、サファヴィー朝初代シャー・イスマーイール1世に圧勝した戦いです。
結果としてアナトリア東部をオスマンが制圧し、以後しばらくはサファヴィー朝が守勢に回ることになります。

 

17世紀には“ほぼ定位置”で安定

その後も何度も戦争は続きましたが、1639年のズハーブ条約で一応の国境線が確定。
これにより、イラクはオスマン、イラン高原はサファヴィーという“住み分け”が落ち着き、以後は小競り合いはあっても、大規模戦争は一時的に下火になります。

 

でも敵ばかりじゃなかった?文化と商業の交流も

ずっと戦ってばかりだったわけじゃなく、戦争の合間には文化や交易を通じた交流も存在していました。
そこがまた、この両国関係の“複雑でリアルなところ”なんです。

 

貿易ルートでは協力も

東西を結ぶシルクロードやキャラバン貿易では、オスマン領とペルシャ領をまたいで商人たちが行き交っていました。
特に絹や香料のルートでは、どちらの側も通行税や関税で利益を得ていたため、「ここはビジネスだから戦争中でも止めない」という現実的な判断も多かったんです。

 

文化・芸術では“お互いに影響”しあってた

建築、詩、装飾、書道といった分野では、オスマンとペルシャのスタイルが互いに影響し合って発展しました。
たとえばオスマンの宮廷詩人たちがペルシャ語を用いて詩を詠んだり、ペルシャ風の文様やタイル装飾がオスマン建築に取り入れられるなど、「憧れつつ、ライバル視する」という複雑な関係だったわけですね。

 

オスマン帝国とペルシャ帝国の関係は、まさに“対立と共存が入り混じった関係”でした。
宗派の違いが火種となって何度も衝突しながらも、文化・貿易・地理的近接という要素が、完全な断絶を防いでいたんです。
つまり、両者は「敵であり、鏡であり、隣人」でもあった――そんな歴史の深みが感じられる関係性だったんですね。