
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界中で「専制から立憲君主制へ!」っていう近代化の波が押し寄せます。
オスマン帝国もその流れに乗って憲法(カーヌーン=イ・エスアースィー)を制定し、議会制度を導入するんですが……残念ながら立憲君主制として安定することはできませんでした。
その原因は、“やる気不足”というよりも、帝国ならではの複雑すぎる事情が絡み合っていたからなんです。
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最初の本格的な立憲制導入は1876年のこと。
スルタンアブデュルハミト2世のもとで、オスマン帝国初の憲法が公布され、議会も開設されました。これがいわゆる「第1次立憲制」です。
国内外から「古臭い専制国家じゃん」と思われていたオスマン帝国は、西洋列強への“見栄”として立憲制を導入した側面が大きいです。
同時に、民族問題や反乱が相次ぐ中で、「ほら、議会作ったからもう反乱しないでね!」という内部向けのガス抜きの意味も。
第1回の選挙で議会が開かれたのも束の間、たった2年後の1878年には議会が停止。
「非常時だから」としてスルタンが憲法を事実上凍結してしまいます。
そこから約30年、帝国はまた専制状態に逆戻りするんです。
問題は山積みでした。特にオスマン帝国には、立憲制を維持するにはあまりにも不向きな環境で溢れていたんです。
憲法を作ったとはいえ、スルタンの地位はほぼ無傷。
議会が何を決めても、最終的に「スルタンの承認が必要」な仕組みで、実質的な三権分立が成立していなかったんです。
アブデュルハミト2世は「立憲君主」を名乗りながら、スパイ網で反対派を徹底弾圧してたくらいです。
帝国はトルコ人、アラブ人、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人などあらゆる民族と宗教が混在する状態。
議会に各民族の代表を入れたものの、みんなが自分の要求だけ主張して、話が全然まとまらない。
こんな感じで、統一国家のルールを作る前に議会が大混乱だったんですね。
オスマンが立憲化しようとしても、外からロシアやイギリスが少数民族に支援したり、バルカン諸国が独立を叫んだりして、むしろ議会政治が分裂の口実になってしまうという、完全な悪循環。
1908年、「青年トルコ人革命」によってスルタンが憲法を再び有効にし、第2次立憲制がスタート。
でも、ここでも同じ問題が再燃します。
青年トルコ党(統一と進歩委員会)は当初「民主主義っぽいことやろう」としていたけど、政敵を排除してほぼ独裁状態に。
立憲制というより一党支配に近い形になっていきます。
もう憲法どころじゃないレベルの危機が続いて、政治制度の整備は後回し。
そして1922年にスルタン制廃止、1924年にカリフ制も廃止され、帝国は完全に終焉します。
オスマン帝国が立憲君主制に移行できなかった最大の理由は、帝国内の多民族性と中央集権の矛盾にありました。
スルタンの強すぎる権力、バラバラの議会、外からの圧力――これらが全部重なって、“制度は作ったのに機能しない”という悲劇的な結果に。
それでも、その経験が後のトルコ共和国の“近代政治の土台”になっていくんです。