オスマン帝国の結束思想「パンイスラーム主義」の考え方とは

19世紀後半、オスマン帝国はかつてのような“世界の大国”とは言えない状態に陥っていました。
バルカンでは異民族の独立運動が相次ぎ、ヨーロッパ列強にはじわじわと外交と経済で侵食され、まさに「ヨーロッパの病人」とまで呼ばれるほどの衰退ぶsり。
そんな中で登場したのが、帝国をもう一度まとめあげようとする「パン=イスラーム主義(汎イスラム主義)」という思想でした。
「民族ではなく、信仰(イスラム)でひとつになろう!」というこの運動は、オスマンの求心力を再構築するラストチャンスだったとも言えるんです。
今回は、このパンイスラーム主義の考え方、背景、そしてオスマン帝国での使われ方をわかりやすく見ていきましょう!

 

 

パンイスラーム主義ってどんな思想?

パンイスラーム主義(Pan-Islamism)は、宗教=イスラム教を軸に、世界中のムスリムをひとつにまとめようとする運動です。
近代のヨーロッパで広まった民族中心のナショナリズムとは、ちょっと方向性が違うのがポイント。

 

「イスラムは国境を越える」という発想

イスラム教ではもともと、ムスリムの共同体(ウンマ)は国家や民族よりも大きな存在とされてきました。
パンイスラーム主義はこの伝統を活かし、「バラバラになったムスリムを団結させて、西洋の侵略に対抗しよう」という信仰ベースの国際連帯を目指したんです。

 

オスマン帝国のスルタン=カリフを中心に団結しよう

この思想の中心に据えられたのが、オスマン皇帝が兼ねていた「カリフ(イスラム世界のリーダー)」という称号でした。
つまり「カリフたるスルタンのもとに、世界のムスリムよ集え!」というわけです。

 

なぜオスマン帝国はパンイスラームにすがったの?

パンイスラーム主義は、帝国の中でも特にアブデュルハミト2世(在位1876–1909)によって強く推進されました。
ではなぜ、オスマンはこの思想を国家戦略として採用したのでしょうか?

 

民族ごとにバラバラになりつつあったから

19世紀後半、バルカンではギリシャ人、セルビア人、ブルガリア人といった非ムスリムの民族が次々に独立。
帝国内部でもアラブ人やアルメニア人などが独自のアイデンティティを強め、民族による分裂の危機が高まっていました。
そんな状況でスルタンが打ち出したのが、「民族ではなく、信仰によって帝国をまとめよう!」という方向転換だったのです。

 

西洋列強への対抗軸としても有効だった

イギリス、フランス、ロシアなど、列強は中東やアフリカにどんどん進出していました。
そこでオスマン帝国は、「世界中のムスリムが自分をカリフと認めれば、西洋による侵略への“精神的な壁”を築けるのではないか」と考えたわけです。

 

実際にどんなことが行われたの?

パンイスラーム主義は、単なるスローガンではなく、国内外でいろんな形で実践されていきました。

 

カリフとしての“宗教外交”を展開

スルタン・アブデュルハミト2世は、自らの権威を強調するために、イスラム世界中の宗教指導者に書簡を送ったり、アジア・アフリカのムスリムに向けて「自分があなたたちの守護者です」と積極的にアピールしました。
例えば、英領インドのムスリムたちにとっても、カリフは特別な精神的存在だったんです。

 

鉄道やメディアを通じたイスラム連帯の演出

象徴的なのが、ヒジャーズ鉄道の建設(ダマスカス〜メディナ間)。
これはハッジ(巡礼)を便利にするためだけでなく、スルタンがメッカ・メディナを守る存在だというアピールにもなっていました。
また、新聞やパンフレットを通じて、スルタン=カリフの偉大さを世界に発信する“宗教メディア戦略”も取られていたんです。

 

でも、うまくはいかなかった…その理由は?

理想は大きかったパンイスラーム主義ですが、現実は厳しいものでした。
なぜなら、信仰だけでは統治をまとめきれなかったからです。

 

ムスリムの中にも“別の国民意識”が芽生えていた

アラブ人たちはやがて、「自分たちはトルコ人ではない」とアラブ・ナショナリズムを強めていきます。
さらに、トルコ国内でも「パンイスラームじゃ限界がある」としてパン=トルコ主義や世俗主義を掲げる勢力が台頭。
結果、パンイスラームは帝国全体をまとめきる力にはなりきれなかったんです。

 

宗教だけで“近代国家”は運営できなかった

鉄道、税制度、軍制改革…帝国の近代化には宗教を超えた制度的な整備が不可欠でした。
でもパンイスラームに傾倒するあまり、アブデュルハミト2世政権では専制と反動が強まってしまい、国内の不満が爆発。
その結果、1908年には青年トルコ人革命が起きて、スルタンは実権を失うことになるんですね~。

 

パンイスラーム主義は、衰退するオスマン帝国が「もう一度求心力を取り戻すために掲げた最後の大義」でした。
信仰で人々を結び、列強の侵略に立ち向かおうというその思想は、当時としてはきわめて現実的な対抗策でもあったんです。
でも、それだけじゃ国は維持できなかった――信仰と現実のあいだで揺れた帝国の苦悩が、そこに表れていたんですね。