
世界史の中でも特に“長く・広く・深く”影響を与えたオスマン帝国。
でもその領土が最も広がったときって、いったい誰が皇帝だったと思いますか?
その答えは…スレイマン1世。 ヨーロッパでは「壮麗王(スレイマン・ザ・マグニフィセント)」、イスラム世界では「法の人(カーヌーニー)」と呼ばれた、まさにオスマン帝国の絶頂期を築いた皇帝なんです。
この記事では、スレイマン1世がどんなふうに領土を広げ、なぜ“最強のスルタン”と呼ばれたのか、そしてその時代にどんなことが起こっていたのかを一緒に見ていきましょう。
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スレイマン1世は、在位期間もめちゃくちゃ長いんです。
1520年から1566年まで、なんと46年間!
その間に彼がやったことといえば、戦って、広げて、整えて、そして文化も育てて――まさにスルタン業のフルコース。
スレイマン1世の時代、オスマン帝国は3つの大陸(ヨーロッパ・アジア・アフリカ)にまたがる超大国になりました。
その広さ、ざっくり言うと今の日本の約50倍!ってレベルです。
戦争ばっかりしてたかというと、そうでもないんです。
スレイマン1世は法制度の整備にもめちゃくちゃ力を入れました。
だからイスラム圏では「カーヌーニー=法の人」ってあだ名がついてるんですね。
「武力だけじゃなく、秩序も大事」って考え方をちゃんと持ってたのが、名君たるゆえんです。
スレイマン1世の時代には、ヨーロッパ側にもそうそうたるライバルたちがいました。
この時代はまさに帝国どうしの“チャンピオン戦”って感じだったんです。
オスマン帝国vs神聖ローマ帝国の頂上決戦。
地中海・バルカン半島・中欧で火花を散らし、両国が何十年も激突しました。
「ウィーン包囲(1529)」はまさにその象徴で、ヨーロッパ側からすれば「オスマン帝国こっち来すぎ!!」って状態だったはずです。
陸だけじゃなくて海でもスゴかったスレイマン1世。
地中海では伝説の提督ハイレッディン・バルバロスと手を組んで、ヴェネツィアやスペインの海軍とバチバチにやりあいました。
この時代、地中海はほぼオスマンの庭と化していました。
領土が広がっただけで「黄金時代」って呼ばれるわけじゃないんです。
政治・軍事・法律、そして文化や芸術まで、すべてが輝いていたからこそ、“壮麗な時代”って言われるんです。
この時代に登場した天才建築家ミマール・スィナンが建てたモスクの数々は、今でもトルコの街並みを飾っています。
特にスレイマニエ・モスクは、皇帝と建築家のコラボで生まれた最高傑作。
スレイマン1世の愛妾であり、後に公式に結婚したヒュッレム・スルタンは、政治にも深く関わった超重要人物。
彼女の存在があったからこそ、後の「女性たちの支配時代」へとつながっていくんです。
スレイマン1世は、ただ領土を広げただけじゃありません。
国のかたち、法律、文化、すべてを磨き上げて、オスマン帝国を“本物の超大国”に仕上げた皇帝でした。
だからこそ、彼の時代は今でも「帝国の黄金期」と呼ばれているんですね。