
第13代スルタン《メフメト3世》とは何した人?
─ハンガリー遠征と兄弟殺しを断行─
メフメト3世(Mehmed III, 1566–1603)
出典:Unknown author / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1595年~1603年 |
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出生 | 1566年頃 |
死去 | 1603年12月22日 |
異名 | 兄弟殺しのスルタン |
親 |
父:ムラト3世 |
兄弟 | マフムト、ムスタファ、アブドゥルカディル ほか(多くは即位時に処刑) |
子供 | アフメト1世、ムスタファ1世(後のスルタン)ほか |
功績 | 即位と同時に兄弟19人を処刑し、王位継承の慣例(兄弟殺し)を徹底。長期戦となったハンガリー戦線では、ハジヴァラードの戦いで勝利を収めた。 |
先代 | ムラト3世 |
次代 | アフメト1世 |
オスマン帝国の歴代スルタンの中でも、「即位と同時に起きた大量処刑」なんていう血なまぐさいエピソードをもつ人物は、そう多くありません。でもその衝撃の第一人者が、まさに今回紹介する人物なんです。
そのスルタンこそがメフメト3世(1566 - 1603)!
この記事では、父ムラト3世から帝位を継いだメフメト3世が、いかにして“血の皇帝”と呼ばれる存在となったのか。そして、彼が抱えていた苦悩と治世の実態を、わかりやすくかみ砕いて解説していきます。
即位と同時に、オスマン史でも屈指の“血の出来事”が起こることになります。
1595年、父ムラト3世の死によりスルタンの座についたメフメト3世。ところが即位とほぼ同時に、異母兄弟19人を処刑という凄絶な決断を下します。これは、皇位継承をめぐる内乱のリスクを排除するためとされるものの、オスマン史上最大級の“兄弟殺し”です。
この事件によって、彼は早くも血まみれの即位というイメージを背負うことになりました。
メフメト3世の治世はわずか8年あまり。1603年、病によりわずか37歳で亡くなります。死因は肥満や糖尿病による体調悪化とも、心労による心臓疾患ともいわれていますが、即位直後からの重圧が長く尾を引いた結果とも考えられます。
息子のアフメト1世に皇位を託して、その波乱に満ちた生涯を閉じました。
即位時の残酷な決断とは裏腹に、メフメト3世自身は、かなり内向的で繊細な人物だったと伝えられています。
メフメト3世は、子どもの頃から物静かで内省的な性格だったと言われます。父ムラト3世同様に、スーフィーの教えに影響を受け、信仰心も篤かったようです。
政治の世界では、しばしば強い母后サフィエ・スルタンの影響を受け、彼女の意向に沿った決定を下していたともされます。母の影響力がとにかく強かった時代だったわけですね。
逸話として注目すべきは、メフメト3世が自ら戦場に出た最後のスルタンだということ。1596年のケルステ戦では、実際に軍を率いて前線へ赴き、ハプスブルク軍と対峙しました。
この戦争ではオスマン軍が辛勝をおさめるものの、戦場経験のあるスルタンは以後ほとんど現れなくなります。そういう意味で、彼は「古き時代の最後の皇帝」ともいえるかもしれません。
治世は短く、内政も混乱続きでしたが、それでもメフメト3世の時代は転換点でもありました。
メフメト3世の治世では、対ハプスブルク戦争(長期戦争)が本格化。ケルステ戦を筆頭に、戦線は膠着状態に陥り、財政と軍備の負担がますます重くなっていきます。
この時代、オスマン帝国はヨーロッパの列強と対等以上にわたり合える最後の時期に差し掛かっており、戦場での勝利がスルタンの威信を守る手段でもあったわけです。
一方、内政では母サフィエ・スルタンによる後宮政治が本格化。宰相の任免や外交政策にも口を出すようになり、これが後のスルタンたちにとって「お母さんの顔色をうかがう統治」が常態化していく序章ともなります。
つまり、皇帝の権威の変質が、彼の代から本格化したとも言えるんですね。
メフメト3世って、血なまぐさい即位や重圧に苦しみながらも、なんとか自分の役割を果たそうとした“悲劇の皇帝”って感じがしますよね。戦場に立った最後のスルタン、そして後宮政治の時代を切り開いた人物でもあるわけです。