
第23代スルタン《アフメト3世》とは何した人?
─チューリップ時代の文化と享楽を象徴─
アフメト3世(Ahmed III, 1673–1736)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1703年~1730年 |
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出生 | 1673年12月30日 |
死去 | 1736年7月1日 |
異名 | チューリップ時代のスルタン |
親 |
父:メフメト4世 |
兄弟 | ムスタファ2世 ほか |
子供 | マフムト1世、ムスタファ ほか多数 |
功績 | 西洋文化の受容と芸術・印刷の発展を促し、「チューリップ時代」と呼ばれる平和で華やかな時代を築いた。1730年のパトロナ・ハリルの反乱で退位。 |
先代 | ムスタファ2世 |
次代 | マフムト1世 |
オスマン帝国が戦乱の泥沼からようやく抜け出し、「文化」と「外交」で立て直しを図ろうとしていた18世紀初頭。そこに登場したのが、“戦わないスルタン”とも、“チューリップの王”とも呼ばれる、ちょっと風変わりな皇帝でした。
その人物こそがアフメト3世(1673 - 1736)!
この記事では、長期にわたって帝国を導いたアフメト3世が、どんなふうに政治と文化に向き合い、「チューリップ時代」と呼ばれる特異な黄金期をどう築き、どう終わらせたのかを、わかりやすくかみ砕いて解説します。
アフメト3世の治世は、戦乱の収束と平和の模索、そして最終的なクーデターによる失脚という、めまぐるしい流れに包まれていました。
アフメト3世は、ムスタファ2世の弟として生まれ、1703年に兄が退位させられたあとエディルネ事件の混乱の中でスルタンに即位します。即位直後の帝国は内外ともに不安定で、彼はまず安定と平和の回復に努めました。
バルカンでの戦争は抑えつつ、対ロシアや対ペルシアとの外交で微妙な綱引きを展開。軍事よりも調整と交渉を重視する、ちょっと珍しいスタンスのスルタンだったんですね。
1720年代に入ると帝国は一時的な文化的繁栄を迎えますが、1730年、パトロナ・ハリルの乱と呼ばれる反乱によって宮廷は急転直下の大混乱に。
アフメト3世は退位を余儀なくされ、その後は政治の表舞台に出ることなく、1736年に63歳で死去。おだやかだけど、どこか切なさの残る晩年でした。
アフメト3世は、戦場よりも書斎を好むような、内省的で文人的なタイプの皇帝でした。
彼は詩・書道・歴史書の収集などを愛し、とくに西洋の科学や芸術にも強い関心を示しました。自らペルシア語の詩を詠み、文化人や学者を積極的に保護したんです。
そうした姿勢が、のちに「チューリップ時代」と呼ばれる一大文化ブームを生むことになります。
政治的には対立よりも調和を重んじ、戦争より外交で物事を解決する方針をとりました。これは一見理想的ですが、軍部や保守派からは「弱腰」と見なされ、後々の不満の温床にもなってしまいます。
このあたり、理想主義と現実のギャップに悩む「穏健派の悲哀」がにじむ人物だったわけです。
アフメト3世の功績は、戦争ではなく文化と制度の側面で大きく花開いています。
彼の治世で特に有名なのが、チューリップ時代(ラーレ・デヴリ)と呼ばれる文化的黄金期。オスマン貴族たちの間でチューリップの品種改良が流行し、庭園や建築、服飾にまで影響を与えました。
この時代には印刷技術(イブラヒム・ムテフェッリカの印刷所)が導入され、西洋の合理思想が初めて体系的に帝国に取り込まれるなど、新時代の息吹が感じられるようになります。
チューリップのミニチュア絵画
アフメト3世の治世に花開いたチューリップ時代を象徴するレヴニーの作品
出典:Abdulcelil Levni / Wikimedia Commons Public domainより
アフメト3世はオーストリア・ロシア・ペルシアとの複雑な外交戦を切り抜け、帝国の“形”だけは保つことに成功しました。
特に1718年のパッサロヴィッツ条約では領土の一部を割譲しつつも、全体として安定を確保。外交センスと妥協力が光った場面でもあります。
アフメト3世って、軍人タイプのスルタンとは真逆の“文化系スルタン”って感じですよね。チューリップに夢中な皇帝って、なんだか可愛らしいけど、その裏で国家の方向性を変えようと必死だったわけです。