ムスタファ3世は何した人?─科学と軍制改革に取り組む

ムスタファ3世は何した人?

オスマン皇帝紹介・第26代スルタン《ムスタファ3世》編です。科学や軍事改革に関心を持ち、西洋化を模索した啓蒙君主。ロシアとの戦争では苦戦を強いられ、近代化の限界も露呈しました。その生涯や死因、性格や逸話、功績や影響を探って行きましょう。

第26代スルタン《ムスタファ3世》とは何した人?
─科学と軍制改革に取り組む─

ムスタファ3世(Mustafa III, 1717–1774)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain

 

ムスタファ3世の基本情報
在位 1757年~1774年
出生 1717年1月28日
死去 1774年1月21日
異名 改革志向のスルタン

父:アフメト3世
母:ミフリシャー・スルタン

兄弟 アブデュルハミト1世 ほか
子供 セリム3世、シャー・スルタン、ハティジェ・スルタン ほか
功績 科学・軍事の近代化を進め、ヨーロッパ式の技術導入に努めた。露土戦争では敗北を喫したが、改革への意志をセリム3世へと受け継がせた。
先代 オスマン3世
次代 アブデュルハミト1世

 

18世紀後半のオスマン帝国は、ヨーロッパで進む近代化の波に追いつけず、制度や軍の古さが目立ち始めていた時代。そんな中、なんとか帝国を近代的な方向へ引っ張ろうと奔走したスルタンが登場します。

 

それが、ムスタファ3世(1717 - 1774)

 

この記事では、科学と軍事改革に情熱を注ぎ、「オスマン近代化の先駆者」とも称されるムスタファ3世の奮闘と、その限界、そして後世に与えた影響を、わかりやすくかみ砕いて解説します。

 

 

 

生涯と死因

ムスタファ3世の治世は、改革と戦争、期待と挫折が交錯する“過渡期の縮図”でした。

 

40歳で即位した改革皇帝

ムスタファ3世は、アフメト3世の息子。先代オスマン3世の死を受けて1757年に即位します。すでに40歳という成熟した年齢で、幼少期から学問・政治・軍事に強い関心を抱いていた“準備万端の皇子”だったんですね。

 

即位後はただちに軍事改革と行政改革に着手し、西洋式の軍制導入や財政再建を試みました。

 

ロシアとの戦争中に急死

治世後半は、ロシアとの対立が深刻化。1768年に露土戦争が勃発し、戦局はオスマン側に不利に傾いていきます。精神的な重圧も大きかったとされ、1774年、戦争中に心臓発作で急死。享年57歳でした。

 

彼の死の直後、帝国はキュチュク・カイナルジャ条約という屈辱的な和平を結ぶことになります。

 

露土戦争最大の激戦「シプカ峠の戦い」
ロシア軍とブルガリア義勇兵がオスマン軍の攻勢を食い止めた激戦

出典:Public domain / Wikimedia Commonsより

 

性格と逸話

ムスタファ3世は、信仰と理性、伝統と改革の間で揺れ動く、複雑な性格の持ち主でした。

 

信仰心と合理主義の共存

彼は信仰深いスルタンでありながら、西洋の科学や軍事技術にも強い関心を示し、自ら天文学や数学を学ぶほどの知的好奇心の持ち主でした。

 

特にフランスの軍事顧問を招いたり、科学書をトルコ語に翻訳させたりと、理性と実学を国家運営に取り入れようとした意志は本物だったのです。

 

自筆の詩と内面の葛藤

ムスタファ3世は詩作もたしなみ、皇帝としての苦悩や時代への焦燥感を自らの詩に込めていました。
たとえば、彼はある詩で「帝国の屋根はもう雨漏りしている…」と記しています。まさに老朽化する帝国への自覚がにじみ出た一節です。

 

 

功績と影響

ムスタファ3世の改革は途中で終わったものも多かったですが、その志は次の時代の礎となっていきました。

 

軍事と行政の西洋化の萌芽

彼の時代には、フランスから招かれた技術者たちによって砲兵学校(後の工科学校)設立の準備が進められました。また、旧来の軍隊制度の見直しや、徴税制度の合理化など、構造的改革の“はしり”が生まれます。

 

のちに本格化する「タンジマート改革」や「セリム3世の近代化路線」は、まさにこの時代の積み重ねがあってこそなんです。

 

戦争の敗北と外交的屈辱

しかし彼の死後、結ばれたキュチュク・カイナルジャ条約(1774)では、ロシアに黒海方面の支配権を許す結果に。オスマン帝国は事実上、軍事的劣勢を世界に認めることになります。

 

この敗北は、軍の近代化が不可避であることを強烈に突きつけた一件でもあり、ムスタファ3世の“未完成の改革”がいかに重要だったかを後世に知らしめることとなりました。

 

ムスタファ3世って、伝統と近代の間でもがいた“悩める改革者”だったんですね。もし彼がもう少し長生きしていたら、帝国の未来は変わっていたかも…そんな「惜しい皇帝」だったのです。