
第30代スルタン《マフムト2世》とは何した人?
─イェニチェリ解体で近代国家への道を開く─
マフムト2世(Mahmud II, 1785–1839)
出典:John Young (1755–1825) / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1808年~1839年 |
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出生 | 1785年7月20日 |
死去 | 1839年7月1日 |
異名 | タンジマート前夜の改革王 |
親 |
父:アブデュルハミト1世 |
兄弟 | ムスタファ4世(異母兄) |
子供 | アブデュルメジト1世、アブデュルアズィズ ほか |
功績 | 1826年にイェニチェリ軍団を武力で廃止し、近代軍を創設。中央集権化と官僚制改革を進め、後のタンジマート(恩恵改革)へ道を開いた。 |
先代 | ムスタファ4世 |
次代 | アブデュルメジト1世 |
19世紀初頭、オスマン帝国は内政も軍もボロボロで、改革を断行しようとする者は次々に排除される──そんな混迷のなかで皇帝の座に就いたのが、決して甘くはないけれど、本気で“帝国の再建”を目指した強権スルタン。
その人物こそがマフムト2世(1785 - 1839)!
この記事では、イェニチェリの粛清から行政・宗教制度の改革まで、大胆な近代化を成し遂げたマフムト2世の政治的センスと覚悟を、わかりやすくかみ砕いて解説します。
マフムト2世の治世は、「破壊と創造」の両面を持った激動の時代でした。
マフムト2世はアブデュルハミト1世の息子で、即位前には兄ムスタファ4世によって暗殺されかけた経験があります。1808年、セリム3世の改革派支持者たちの支援を受けて皇帝に即位。まだ23歳という若さでしたが、その後30年以上にわたって帝国の近代化に挑むこととなります。
改革の重圧と連年の戦争による疲弊の中、1839年に結核のため死去。享年54歳。後継者となるアブデュルメジト1世に、改革の志を託してこの世を去りました。
マフムト2世は、厳格で強い意志を持ちながらも、文化と学問に理解ある“冷静な実務家”といった印象の人物でした。
彼は、見た目にもこだわりを持っていて、西洋風の服装や髪型を自ら取り入れ、臣下にもそれを奨励しました。「帝国の服を脱がせた男」として有名で、服装改革は単なるファッションではなく、精神の近代化を象徴するものでした。
また、治世の安定化には情報が不可欠だと理解していた彼は、密偵制度(エフェンディ・テレケシ)を強化し、地方や宮廷の動きをつねに監視。加えて、学識のある文官を多く登用し、中央集権的な官僚制を整えていきました。
マフムト2世の時代は、オスマン帝国が“前近代”から“近代国家”へと脱皮し始めた、大きな転換点でした。
なかでも最も劇的な出来事は1826年の「イェニチェリ粛清(歓喜の出来事)」。彼は長年にわたって王権に反発してきたイェニチェリ軍団を一気に壊滅させ、代わりに近代式の正規軍(アスァーキリ・マンスーレ・ムハンマディーイェ)を創設しました。これは軍事だけでなく、国家全体の大変革を可能にする大一歩だったのです。
イェニチェリ
マフムト2世は近代化の障害となっていたイェニチェリを1826年に武力で廃止し、オスマン帝国の軍制改革を大きく前進させた
出典:Wikimedia commons Public domainより
さらに、ウラマーや宗教施設の権限を抑制し、ワクフ(宗教財産)制度の国有化を進め、宗教界にもメスを入れました。これによって中央政府の財源が強化され、国主導の行政運営が本格化します。
同時に、教育制度や文書行政の整備も推進し、国としての輪郭がより明確になったのもこの時代の大きな成果です。
マフムト2世は、まさに「壊して、つくる」ことで新しい時代を切り開いたスルタンでした。彼の改革なしには、オスマン帝国はただ古びた衣装を着たまま、時代に取り残されていたでしょう。そんな“最後の帝国改造者”の姿は、今なお歴史に深く刻まれているのです。