
第14代スルタン《アフメト1世》とは何した人?
─ブルーモスク建立と兄弟殺し廃止─
アフメト1世(Ahmed I, 1590–1617)
出典:Bilinmiyor / Wikimedia Commons Public domain
在位 | 1603年~1617年 |
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出生 | 1590年4月18日 |
死去 | 1617年11月22日 |
異名 | ブルーモスクの建立者 |
親 |
父:メフメト3世 |
兄弟 | ムスタファ1世(のちのスルタン) ほか |
子供 | オスマン2世、ムラト4世、イブラヒム ほか |
功績 | 即位時に兄弟を処刑せず、後の「鳥籠制度」の先例を作る。スルタン・アフメト・モスク(ブルーモスク)を建立し、内政・宗教面での威信を示した。 |
先代 | メフメト3世 |
次代 | ムスタファ1世 |
オスマン帝国のスルタンといえば、戦場で剣をふるう“武人”というイメージが強いかもしれません。でも実は、統治の仕方にはいろんなタイプがいたんです。軍事よりも法や信仰に重きを置くスルタンもいれば、宮廷文化の整備に力を注いだスルタンも。
そんな中で、宗教的理想と政治的改革をバランスよく追求した、ある種“調和派”のスルタンが登場します。
その人物こそがアフメト1世(1590 - 1617)!
この記事では、兄弟殺しの慣習を断ち、あの「ブルーモスク」を建てたことで知られるアフメト1世の人生と、その思想や影響力を、わかりやすくかみ砕いて解説します。
帝国の荒波の中、まだ十代の若者がスルタンの座につくことになります。
1603年、父メフメト3世の死を受けて、わずか14歳で即位したのがアフメト1世。当時、オスマン帝国は対ハプスブルク戦争の最中で、若きスルタンにとってはかなりの重荷でした。
それでも彼は、即位にともなって兄弟を処刑する慣習を初めて破ったスルタンとしても有名。弟ムスタファを生かしておいたことで、オスマン皇帝の即位ルールは“大きな転換点”を迎えることになります。
アフメト1世は長くは生きられませんでした。1617年、天然痘またはチフスにかかって27歳で亡くなります。でもその死は「惜しまれた」と記録に残るくらい、臣下たちからの評判がよかったんです。
即位当初は若さゆえに不安視されたものの、後年には敬虔なスルタンとして多くの信頼を集めていました。
アフメト1世は、祖父や父とはまた違う、穏やかで理知的な人物でした。
彼の性格を語るうえで欠かせないのが強い信仰心。スーフィー思想やイスラム法に深い理解を示し、政治的判断にもそれを反映させていきました。
また、民衆からの評判も高く、「善政を目指す若き王」として知られていました。しばしば宮廷を抜け出して市井の声を聞きに行った──なんてエピソードも残っています。
それまでのオスマン皇帝たちは、即位と同時に兄弟を粛清することが慣例でしたが、アフメト1世はこれをあえて行わなかった初の皇帝。弟ムスタファを幽閉したものの、生かしておいたことで、のちに“兄弟間の順番”ではなく“家系内の年長者順”で皇帝を選ぶ制度へとつながっていきます。
ここから、いわゆる「兄弟殺しの時代」は終わりに近づくんです。
アフメト1世の治世は短かったけれど、その足跡は今もイスタンブルの中心に色濃く残っています。
もっとも有名な業績といえば、やっぱりスルタンアフメト・モスク(通称ブルーモスク)の建設。1609年に着工し、彼の死後すぐに完成しました。
このモスクは、ビザンティン建築とイスラム建築の融合とも言われる壮麗なデザインで、帝国の宗教的威厳を体現する存在となりました。
スルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)
アフメト1世が信仰の象徴としてイスタンブールに建立させた、壮麗な六本の尖塔(ミナレット)をもつモスク
出典:Bigdaddy1204 / Wikimedia Commons Public domainより
戦乱の中にあっても、アフメト1世は国内の法制度の整備に取り組みました。農民の土地保有を守る法や、官僚の腐敗を取り締まる命令など、「内政の見直し」に力を入れたのが彼の特徴です。
また、対外的にも、サファヴィー朝との和平条約(ズハブ条約)に道を開いたことは評価されています。
アフメト1世って、武力じゃなく“信念”で国を動かそうとした皇帝だったんですね。ブルーモスクを見れば、今でも彼の理想と精神がどれだけ大きかったかがわかります。戦いだけじゃない、そんな皇帝もいたってこと、ちょっと誇らしい気がしませんか?